死閃の位置 第十章

第十章

 対立逆罪

 

 基本的に、路地裏というのは汚い。

 店の裏口から出されたゴミや、通行人とも言えないモノ達が捨てていく『残骸』。

 大きな都市にもなれば、血痕が付いているのも珍しい事ではない。

 

 だが、この匂いの濃さはそれでは説明が付かない。

 

 普通、付いている血痕は微量であり、直ぐに乾いてしまうため匂いそのものは余しない。

 しかし、今現在臭うこの濃さは尋常ではない。

 臭いが濃いのではない。場を塗り潰している。

 

 何時ものならば漂う腐臭も、据えた性臭も、黒き感情も。

 全てを塗り潰して只々場を支配する血臭は、戦場のそれですらない。

 

 吐き気を催す筈の臭いは、しかし彼にとって意味を持たない。

 幾つもの、量も種類も違うそれらを浴びて来たのだ。今更どうだと言う気にもならない。

 

 しかし、彼の目の前に居る人物にとっても、それはどうでもいいものだった。

 

「復讐なんて下らない事は止めろ」

 

 復讐と言うのは何だろうか。

 有体に言ってしまえば、己の憎しみや後悔を晴らすための行動だ。

 復讐の結末は個々人で違う。

 それが物品の破壊であったり、故人の弔いであったり、謝罪の要求であったり、殺しであったり。

 多種多様であり、明確な線引きはない。

 故にこそ、明確な終りは感じる事がしにくい。

 

 ならば、始まり、直後に終わると言う事も出来るのだろうし、ずっと、それこそ終わらないということも在るのだろう。

 延々と、敵とした者達を討ち取り続け、それでも止まらない者や、許しを請うた者を許し、それで復讐の幕引きということにする者も居る。

 

 

 それは只の自己満足。

 

 

 本来、復讐等、意味を成さないものだった。

 幾ら敵を殺そうが何をしようが、無くなったモノは帰って来はしない。

 ならば、何の為に彼らは復讐を成そうとするのか?

 

 簡単だ。己の気持ちを整理したいからだ。

 

 憎しみ、悲しみ、愛情、友情、裏切り、信頼、。

 様々なものによって受けた感情を、どうしようもなくなり、だからこそそれを己にした者へと返すのだ。

 

 つまりは、復讐には意味など無い。

 あるのは、只の自己満足だけだ。

 

 復讐なんて、結果に納得できない阿呆のやる事だ。

 

 だからこそ、眼前に居る聖にはそうなって欲しくは無い。

 否、今なっているが、戻って欲しい。

 

 復讐に費やした時間は、後になって無意味だと嘆くのは余にも惜しい。

 喪ったものは、戻らないのだから。

 

 だからこそ、彼女に話しかけるが、

 

「――は?」

 

 いきなり何を言うのか、という顔で、彼女は此方を睨んでいる。

 それは当然の反応だが、自分には関係ない。相手の意思は必要ない。

 自分の思考を納得させるだけ。

 

「い、いきなり何を言ってるのよ?」

 

「いや、字面そのままの意味だ。復讐は止めろ」

 

「は……?」

 

 眉根を顰めた状態で彼女は此方を睨む。

 

「貴方ね、今そんなことは関係ないし、そもそも貴方にとやかく言われるようなことじゃないでしょう?」

 

「相方として、言わせて貰うには些か役不足か?」

 

 顔から力を一切抜いた状態で切り返しても、彼女の剣呑な眼光は消えはしなかった。

 否、尚一層、その鋭さを増し、彼女の怒気は加速度的に増していく。

 

「……役不足も何も、会ってからそう時間も経っていないのにそんなことを言われる義理は無いわ」

 

「じゃあ、先達で在る俺の義務とでも言っておこうか」

 

「は?」

 

 口を呆然と開く彼女からは、一瞬怒気が抜けたが、それでも収まることなど到底無い。

 再び鋭さを持ち始める白銀の瞳は愚直なまでに此方を貫く。

 

「……ふざけてるの?」

 

「生憎と、ふざけるのは好きじゃない。本気だ」

 

 自分よりも頭一つ分低い顔からは、鋭さが抜けないままに、冷たさが入り混じる。

 しかしそれは爆発せず、一定を保ち隠される。

 

「……私は、復讐の為に、此処まで来たのよ? それを、止めろって言うの?」

 

「それが?」

 

 説得をする気も無ければ押さえる気も毛頭無い。

 恨まれようが何を思われようが意味は無い。ただ納得させるだけ。

 助ける事には繋がらないのかもしれない。否、ならないのだろう。

 それでも、自分は自己満足の為に動く。

 

「――――警告するわ。貴方はこれ以上アタシの『復讐』に手を出さないで。ソレを犯せば――」

 

 微かな呼吸の繋ぎは、殺意を顕現する為の贄。

 

「――殺す」

 

 凍て付いてしまいそうな殺気は、言葉通りに無造作に放たれた魔力に拠って冷気と化す。

 凍り固まって行く大気。

 冷たい輝きを放つ月下、乱立したビルの合間に照らされた路地は血臭すらも固めていく。

 温い夜風は絶え、入り乱れる風は肌を切るかのよう。

 下がって行く想いは彼女の心内を表す。

 

 だが。

 

 それでも、自分には足りない。

 弱い。弱すぎる。

 身を舐める風は緩く、放たれる殺気は甘く、向けられた眼光は鈍い。

 魔力は濃い。想いも十分も十分だ。

 しかし、ソレには力が足りない。思考が足りない。気概が足りない。

 

 ――何よりも、意志が足りない。

 

 故に、自分は彼女の思いを圧し折り、納得させる。

 己自身の為に。

 

「貴方が抵抗しようが許しを請おうが殺す。泣き喚いても許しはしない。貴方は、それだけの事を言ってしまった」

 

「殺す、ね……」

 

 ……聖さんが? 俺を? 殺す?

 

 笑えない冗談だ。

 力も意志も思考も想いも願いも経験も生き様も何もかもが甘い彼女が自分を殺す?

 下らない。

 

「無理だね、君には」

 

「……決め付けるんじゃないわ」

 

「否。君も分かってるだろう? これは決め付けじゃなく事実だ、と」

 

「………………」

 

「『獣変調』時の君を殺した俺に、君が適う筈が無い」

 

「……る、さい」

 

「魔力精製速度、魔力制御能力、瞬間精製量、筋力等、君が俺に勝てる所は何処にも――」

 

「五月蝿いッッ!!!」

 

 叫びが空間を通り、大気が悲鳴を上げて白の凍花を咲かせては消していく。

 しかし、本当の悲鳴を上げたのは眼前の少女であり、

 

「五月蝿い五月蝿い五月蝿いッ!! だったらどうしたって言うのよ!? 貴方なんかに止められる程にアタシの『復讐』は軽くなんか無い!!」

 

 

 

「……軽いはずが、無いだろ」

 

 当たり前だ。

 己の人生を棒に振るようなことが軽い筈が無いのだ。

 時間を、思いを、願いを。

 全てを犠牲にして得るのはたったひとつ。

 

 自己満足。

 

 それは余にも―――のだ。

 彼女は、まだ若い。

 自分のように引き戻せない位置ではない。

 だからこそ――自分が。

 

 先駆者にして大罪者にして愚者の自分が。

 

 止めようとしているのは、間違いではない。

 

「それでも、君自身の価値には到底及ばないんだ、聖さん」

 

「ッ!!」

 

 より一層、彼女の視線が輝きを増す。

 魔力が彼女の身体を伝い、既に四肢の先は『獣変調』し始めている。

 

 それはどういった怒りなのだろうか。

 

「ふざけないで……!!」

 

「俺はふざけて――」

 

「五月蝿い!! 何よ!? 貴方は私より母さんや父さんの方が下らないって言うの!?」

 

「そうは言ってない。ただ俺は、」

 

「黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れェッ!!! 何でそんな事分かるのよ!? 貴方みたいなこんなところでぬくぬくと生きてるヤツに!!」

 

 彼女が一瞬身を収縮させた。

 肉眼で見ることが可能なまでに莫大な魔力は、一瞬にして彼女の身体を音速を遥かに超えた速度で巡り、

 

「アタシの事が分かるわけ無いでしょう!!!?」

 

 爆発した。

 地面に放射状に皹が入った直後、其処は破裂し、背後のコンクリートの外壁を叩き壊した。

 

 一直線に突っ込んでくる彼女は、しかし怒りと悲しみをごちゃ混ぜのような顔をしており、

 

「――分かるさ」

 

「っ!!?」

 

 彼女の拳を此方も真正面から受けた。

 右手で彼女と押し合う形になる。

 

「何が……っ!! 何が分かるって言うの!?」

 

「君が言ったこと全て」

 

「そんなこと……在るわけないでしょう!!」

 

 より魔力が精錬され、此方が少し押される。

 じりじりと此方へと迫ってくる拳は、泣き叫んでいる子供のような気がする。

 

「いきなり両親を失って、誰も居なくなったって言う、そんな怒りを!! 憎しみを!! 恐怖を!!! どうして貴方が分かるのよ!!!?」

 

「それは――」

 

「父さんと同じ顔(・・・)が父さんを殺して、母さんを連れて行って、帰る場所も誰も何もかも亡くしたのよアタシは!!!?」

 

「ぐ……!?」

 

 感情によって爆発的に量だけが膨れ上がった魔力が全て凍らせていく。

 微かに拳を受け止めている手が固まりかけ、魔力を多く流し弾き飛ばす。

 

 既に辺りは彼女の魔力によって零下を下回っている。

 

「そんなことが、貴方なんかに――」

 

 拳が一瞬離れ、彼女は逆の拳を構え、

 

「分かるわけ、無い!!!」

 

「っ――ぐぅ……!?」

 

 吹っ飛ばされ、靴底で制動をかけるもかなりの距離を開けてしまう。

 見れば、受け止めていた右手が真っ青に凍り付いている。

 

「――剥れろ」

 

 詠唱破棄。害を撤去。

 氷を剥して魔力を注ぎ、正常へと持っていく。

 

 顔を上げ、彼女を見れば、此方を殴り飛ばした姿勢のまま睨みつけてくる。

 

「貴方は、ただ生きてるだけでしょう……?」

 

「……」

 

「何もしないまま、ただただ時が流れるのに身を任せて毎日を生きてるだけ」

 

「…………」

 

 返す言葉は――無い。

 その通りだ。

 

「何か出来るだけの力を持っているのに何もしないで。そんな貴方が、アタシに何かいえると想うの……?」

 

「……っ」

 

 自虐的な笑みを浮かべた彼女が此方へと――否、此方の背後へと歩いてくる。

 

「其処、どいて。……そっちに居るんでしょう? バケモノが」

 

「……」

 

「ソイツがもしかしたら、アタシの仇かもしれない。だから、退いて」

 

「……拒否する」

 

 やっとの思いで絞り出した声は、酷く掠れていた。

 

「……何で?」

 

 微かに苛立ちの声が在る。

 

「……退いて」

 

 あくまでも無言で道を塞ぐ。

 此処を行かせれば、取り返しが付かなくなる。

 そんな、確信にも似た予感があった。

 

「退きなさい――」

 

 しかし。

 

 彼女の怒声と悲鳴が入り混じった声が響いた時。

 

 

 

「――良い夜だね?」

 

 

 銀が、舞い降りた。

 

 

 

 

 

 既に此処は純白と言う名の冷気が覆い、輝きすらもない。

 それは聖が無意識に己が属性を魔力へと乗せていたからであり、それは彼女が意識を一瞬でも手放せば放出は止まる。

 故に今は魔力であり冷気である突風は収まり、ただ凍て付いた白の世界と、要と、聖だけが存在しているだけの筈であった。

 

 ――ただ銀の人狼は、己が異様を世界に見せ付けた。

 

 恐らくは建築物の上から飛び降りてきたのだろう。相当に速い落下速度は凍った地面に接触すると同時にそのエネルギーを存分に大地へと開放した。

 一撃一瞬で凍て付いたはずの大地が割れ砕け、その欠片は上へと飛び散る。

 背は曲がっているものの、優に3mを超す巨体は銀の体毛に覆われ、吊り上った眼は銀に煌く。

 赤い口内から漏れる吐息は、それこそ熱く、滾っている。

 

「な……っ」

 

 絶句する。

 何だコイツは。いきなり何処から現れた? 否。それは分かっている。分からないのは、

 

 ……何時魔術を使った!?

 

 腐っても自分は『最強』の一角では在る。其処に驕りも無ければ執着も無い。

 だがその称号は、世界でも文字通り、一握りの存在だけが勝ち取った『証明』でもある。

 故に、自分が幾ら会話に気が行っていたとは言え、常時張り続けていた結界に反応が無いと言うのはおかしい。

 誇張でもなければ傲慢などではない。厳然たる事実としておかしい。

 

 何時、どうやって此処へ来たのか。それすらも分からないなど。

 

 ……『魔法』か『概念』でも使ったのかコイツは……!?

 

 『魔法』は『魔術』とは一線を画し、文字面どおり『魔法』のような力を持つが、それを使える者は『最強』と呼ばれる者ほどしか居ない。

 事実、彼も『魔法』所持者として認定されかけたが、アレは只単に自分の魔術属性であって、『魔法』では無い。

 『概念』は『こう在るべき』とその所有者によって確定された『原理』だ。

 其処には魔力等は介在せず、所有者本人の意志によって発動されるが、

 

 ……『魔』が『概念』を使うのは無い。と言って人狼が『魔法』を使うのはソレこそ無い。

 

 『魔』はそれが既に『世界』から確定された『概念』でも在る。否、殆どの存在がそうで在ると言って良い。

 それに該当しないモノは、『神』、『異端』、『脱落者』――

 

 それこそ、バケモノとしか言いようの無いモノばかりだ。

 ソレ特有の、癇に障る気配は『銀』からは感じられないし、もしも『神血』だとしても、それは『純正』の神ではない。

 

 だとすれば、コイツは――?

 

「私を何だと、君のような狭量な見識で決め付けないでくれないかね?」

 

「ッ!?」

 

 ソレ(・・)は、何時の間にか眼前へと移動しており、態々此方の目線へと顔を下ろして自分と視線を合わせている。

 女性の声で、男性の口調のままに話すソレは違和感しか分からない。

 銀に輝くその双眸には、一欠片の理性さえ窺えず、その上狂気と知性が混同し、まるでソレは――

 

「ッぁあ!!」

 

「おおっと」

 

 瞬間的に魔力で強化した抜き手を放てば、ソレはふざけた口調でひらりと避ける。

 巨体の重さを感じさせない、軽やかな回避運動は、余計に違和感を肥大させた。

 

 くつくつ、とソレは笑い、

 

「良い夜だろう? 君達も喧嘩などと言う無粋な事は止めたまえよ?」

 

 ソレは大袈裟に腕を広げ、顔を夜空へと向け、

 

「ほうら、この夜はこんなにも涼やかで、無慈悲で、一向に誰も救いはしない。こんなにも素敵な世界がほかに在るかね? いいや、在るはずが無いだろう?」

 

 女性の声で、男性の口調で、人狼の身体で、狂気の精神で。

 ソレは語り掛ける様に、謳い続けるように、見下すように。

 

 さも楽しそうに、ソレは言葉を連ねる。

 

「願いたまえよ諸君。己が命の存続を。己が意志の連続を。己が未来の前進を!」

 

 滑稽で仕方の無いとでも言うように、ソレは真っ赤な口を晒して嘲笑を上げた。

 長く響くのは既に人の域を外れた音。身体も精神も、全ては人から外れている。

 

「何故ならば君達二人は此処で潰える命だからだ。判るかね? いいや判りたまえ。私が此処に存在しているだけで君達は終わっているのだ。故に叫びたまえ。抗いの意志を。恐怖の悲鳴を。何故ならば――」

 

 一息。

 

「――私が、楽しいからだ」

 

 嬉々とした語りを終え、ソレは視線を前へと戻す。

 既に魔力は一滴たりとも逃さずソレの体内を循環しており、それは既に世界から外れていることも表す。

 

「貴様、一体何だ……?」

 

 身体的に何か矛盾が在るわけではない。標準的な人狼の体系に、恐らくは『神血』による圧倒的な魔力。

 だがしかし、その身体は確かに女性であり、そうでありながらも口調は男性。

 それが趣味で在るならば良い。そんなものは個人の嗜好だ。

 

 だが、そこにどうしても違和感が在る。

 例えるならば、一つのパズルに、一つだけ違うピースが紛れ込んでいるかのような。

 

「何だ、とはいきなり失敬だね君は。何処からどう見ても私は『人狼』だが?」

 

「……」

 

 直感的に、とでも言うのか。或いは勘でもいい。

 確実に、あの身体は今喋っている人格のものではない。

 

 そしてなによりも優先すべき事は、コレの始末。

 

 人払いの結界を張ってはいるが、余にも大きな騒ぎを起こせば感づかれる可能性は否定できない。

 眼前のコレは、そういった類のものを解さないレベルだ。

 類でも種でもない。そう言った事を『どうでも良い』という言葉で片付けられる程に狂っている。

 

 ならばやるべきは簡単。

 

 ――殺せ。

 

「シィッ――」

 

 一歩踏み込むだけで良い。

 狙いは簡単。長く太い首の中心。其処を通り人間で言う脳幹を破壊する。

 初速は高速に。循環させた魔力を足裏から爆発させて零から最高速へ。

 

 氷を砕いての震脚は確かな力を刺突へ与えた。

 既に伸ばし続ける右手には魄穿が握っている。

 励起している術式は『連濁神域』。打ち込んだ対象にとっての異常を強制的に剥離し、封印する。

 

 既に速度は音を破った。避けられるはずも無い。

 

 ……このまま……!

 

「穿て……!!」

 

 穿った。

 

 狙い違わず首元を通り、肉の集合を衝いた感覚があった。

 重複励起していた破砕の術式も滞りなく起動し、簡単なほどにその首を吹き飛ばした。

 

 微かに返る反動を筋力で強引に消し、引き抜く。

 バックステップすると同時に、噴出した鮮血が辺りを染める。

 首は頚骨が見え、綺麗に頭蓋骨と脳幹を吹き飛ばしていた。

 

 通常の人狼ならばこれで死ぬが、しかし――

 

「やはり、か」

 

 吹き飛ばした顔面こそ灰になって消えたが、ソレの身体は未だに健在で、微塵も揺るぐ事は無い。

 

 次第に鮮血が止まり、汚れた桃色の肉があふれ出した。

 

 その肉は即座に引き伸ばされ、練られ、打ち固められ、在る程度の形を整える。

 即座に肉を咲く音が響き始め、肉が動き回る。

 その音が止むのと同時、顔のパーツが作られていく。

 

 数秒経った後には、其処には今殺したはずの人狼が居た。

 

 ソレは何度か首に手を当て傾げ、口を歪め、微かに眉間に皺を寄せて呟く。

 

「く……やはり私では兄には劣るか。はン。腹立たしいものだ」

 

 憎々しげな口調で吐き捨てると、ソレは此方へと顔を向けた。

 数瞬垣間見えた憎悪の感情は消え去り、嫌らしいまでの自信が在る。

 

「――まあ、君に用は無いのだが」

 

「――こ、ぁ」

 

 微かに自分の呼気が漏れた、と知覚した瞬間には、身体は背後に在った筈のコンクリートに突っ込んでいた。

 衝撃が一瞬で全身を走り、頚椎、肋骨三本、四肢を砕かれた。

 肺が割れ、口から鮮血が零れる。

 

 ――視えなかった。

 

 気を抜いた瞬間は無い。

 常時『魔眼』は作動していたし、護身結界を解いた瞬間も無い。

 しかしそれでも、自分が反応する間もなく吹き飛ばされた。

 

「く、ぁ…な、んだ、今の、は……?」

 

 気管に幾らか血が入っているためか、少し発音し辛い。

 途切れ途切れの言葉は、それでもソレに届いてはいるようだった。

 

「ん? 判らないかね? 君達『魔術師』の使う『魔術』ではないよ? 意志である事は同じだがね」

 

 くつくつと哂うその後姿は、嘲りに満ちているように見えた。

 

「さて、それにしても久しぶりだね美歌ちゃん? 約一年半くらいか。 良く其処まで育ってくれたねぇ?」

 

「あ、ぁ……っ」

 

 聞こえた声は、先程の力も何も無く、只抜け落ちた声のみが響く。

 此処からではソレの体が邪魔になり見えはしないが、

 

 ……震えて、いる?

 

 理由など見当もつかない。

 だが、それでも声から判別する事は出来る。

 

「ははは、何を脅えているのやら。まさか恐怖に囚われているとでも? 下らないね?」

 

 確かな侮蔑の意志が在る言葉は、明らかに聖へと向けられている。

 普段の彼女ならば激昂する程の言葉だが、それでも彼女からは震えた声しか聞こえない。

 

 ……一体、何が……?

 

 ソレの口調からすると聖とは過去に面識が在るようだが、そんなものは上辺で判断できることではない。

 

「それとも何かい? 感動の親子の対面という事で感極まって声も出ないとか? ははは、嬉しいねぇ」

 

「ッ! 誰が貴方みたいなヤツを……!!」

 

「本当に?」

 

「ぁ……ッ!?」

 

 滑り込むように会話の流を断ち切った言葉は、聖を凍りつかせた。

 

 

 瞬間。ソレの頭蓋が吹き飛んだ。

 

 

 脳漿は辺り一面に飛び散り、血臭が再び場に充満する。

 しかしそれでも、ソレの身体は揺るがない。

 循環する魔力は瞬時に収束し、首から肉となって再構成される。

 

 そして。

 

「――ん、まぁこんな所かね?」

 

 ソレの首から上に、女の顔が出来上がった。

 微かに揺らいだ姿勢からは流れる銀の長髪が月光を照り返し、見るモノを魅了する。

 形の良い鼻梁、吊り上がり気味の双眸など、聖と酷似している。

 

 首下は獣、上は美女という、違和感を越えて異常を感じさせる。

 

 変わらず耳に残るような嫌らしい口調は在る。

 

 しかし、ソレを見て尚更、聖の震えは激しくなった。

 

「あ……? ぁ、あぁッ……!?」

 

 全身を震わせ、顔を両手で庇う様に挟み、瞳は涙で塗れ、ソレから逃げるかのように足は地面を擦る。

 艶やかな筈の紅唇からは、喘ぎにも似た意味の無い吐息が溢れ、その瞳はソレの顔にだけ注がれている。

 

 それを嘲笑うかのように、美女の顔が不自然に歪んだ。

 

「んん? どうしたんだ美歌? 君の大好きな大好きな――」

 

「や、やめて……っ!」

 

 一瞬。

 

「――お母さん(・・・・)だろう?」

 

 告げられた一言は彼女にとって何よりも重たいのだろうか。

 瞳は焦点を合わせつつも震えを抑えられなくなり、顔を挟む手指は血が滴るほどに力が込められている。

 いやいやをするように微かに頭を振るその姿は、ソレを拒んでいるように見えた。

 

「何を怖がってるんだい? ほら、私だよ?」

 

「ち、ちが、ぅ。貴方、は母さ、ん、何かじゃ、ない……っ!!」

 

 絞り出された声には拒絶の意思はあっても力は感じられなかった。

 

 ――助けなくては。

 

 詠唱破棄での再生を試みる。

 

 ――遡式『負迦逆に拠る第三視点(ゲイザ・リ・デウス)』展開。

 

 以前の時間の身体へと移点する。

 瞬時に傷は無くなり、一瞬だけ全身が突っ張る感覚が在るが、身体を起こす。

 衣服は赤黒くなったままだが、動くのに支障は無い。

 

 動く。

 

「――だから、君に用はないと言ってるだろう?」

 

「ッ!?」

 

 今度は咄嗟に両腕を交差させ、三重に展開した護身結界で防ぐ。

 が、それでも結界は殆ど破壊され、交差した腕が軋んだ。

 

「私は美歌に用が在るのだ。貴様に気をかける暇など無い」

 

「ぐ……ッ」

 

 今度も、何もわからなかった。

 少しでも判ったのは、あの攻撃が真正面から来る事、魔術ではない事だけ。

 

 ……正体がわからない内は危険だな……。

 

 あちらには聖もいる。こちらから手を出す前に彼女を殺されては敵わない。

 手を拱いて見続けるしか、無かった。

 

 無力。

 

 何も為せない。

 力が無いから。意志が無いから。中途半端だから。間違っているから。

 そんな言葉が脳裏でぐるぐると巡り、ついても離れない。

 

 あの時もそうだった。

 

 両親に隠され、見つからないように隠れていただけだった。

 通り過ぎていく『人外』どもに脅え、ただただ他が食われていくのを見ていただけだった。

 

 ――また、繰り返すのか?

 

 脳裏に閃いた言葉は、皮肉としては最大級のものだ。

 また。無力。傍観。見殺し。

 

 どうせ駄目なんだ。

 諦めろ、時間の無駄だ。

 全然出来ないよ。

 

「糞……ッ!!」

 

 

 

 

 

「私は人間だよ?」

 

 人狼は嬉々とした口調で淡々と喋る。

 その視線は完全に聖へと向けられており、要は既に範疇の外だ。

 その身には沸々と力が湧いており、あふれ出た魔力だけで氷雪の世界を溶かしていく。

 

「まあ今となってはどうでもいいがね。ま、美歌ちゃん、君には一緒に来て貰うよ。その存在には兄が打ち込んだアレが入ってるからね」

 

「あ、れ……? あれって、何よ……!?」

 

 震える身体を押さえ、聖が地面を押して立ち上がる気を見せる。

 しかし、

 

「まあまあ、まだ其処に座ってたまえ」

 

「ぁ……ッ!」

 

 人狼の蹴りが空を凪いだ瞬間。鈍い音ともに聖が壁に貼り付けられた。

 鈍い打音が響き、コンクリートに皹が走る。

 

「全く、君は大事な被検体なのだよ? 死んでしまわれたら困るのだがねぇ? まあ――」

 

 一瞬。

 

「――期限付きの不死(・・・・・・・)など、私としては通過点に過ぎないのだが、ね」

 

「……ぇ?」

 

「何、だと……!?」

 

 期限付き。

 この言葉が、要と聖、二人の思考と行動を停止させた。

 

 それを視て人狼は、愉快そうに嘲笑う。

 

「んん? 何を驚いているのかね? あんな、家から逃げ出した出来損ないの兄に、完全な不死など創造できる訳無いだろう?」

 

「ふざ、けないで」

 

「ふざけて等居ないよ、うん?」

 

 くつくつ。

 その耳障りな声が、二人の鼓膜に残る。

 

「そう、兄は私が殺した。しかしその時に、瀕死の重傷だった美歌ちゃんに開発途中だった存在を不死にする術式を打ち込んだわけだ。分かるかね?」

 

 不死。

 死なない。

 それは古代から何万何億の存在が挑み、負け続けたもの。

 生死という概念を、根底から否定する概念。

 

「そもそも、何故不死が作れないのかと思うのかね?」

 

「それは……」

 

 言葉に詰まる要。

 しかし、それが当然なのだ。

 古今東西。『神』すらも不死というモノを得れはしない。

 だが、その理由は未だ誰にも分かってはいない。

 

「簡単なことなのだよ。そう、本当に簡単なことだ」

 

 美麗な、余りにも美しい女の顔で人狼は語る。

 

「我々『聖』の家が目指した不死は、本来ならば不死ではなかったのだよ。我らは医術の一族。存在を治癒することこそが至上だったのだ。だが――」

 

 一泊の間を置いて、彼はさも悔しそうに大仰な態度で語り始める。

 

「だが我々は気が付いた。例え怪我を、病を直した所で人は死ぬ。存在は死んでしまう。これは絶対だ。寿命が無い『神』でさえ殺されては死ぬのだ。なあ、『神殺し(クリミナル)』殿?」

 

「……」

 

 明らかに視線と口調は要を指す。が、要は黙ったまま俯く。

 それに微かに人狼は嘲笑し、

 

「故に我々は探した。先ず寿命を先延ばすことに。次に肉体の劣化を防ぎ、精神の摩減を抑え、魂の消滅を留める術を。すべからくして、我々は不死という最終目標を見つけた」

 

 くつくつと、ソレは哂う。

 己が祖先が起したことを、さも下らないとでも言うように。

 

「だが、肉体を、精神を、魂を! それらを抑える術は見つけ、または作り出そうとも不死は、不死だけは創造出来なかった!! 何故だか分かるかね……!?」

 

 美しいという他言葉が無かった女の顔が歪み、爛れ、別の顔へと変わっていく。

 髪は抜け落ち黒々とした短髪へ。

 片眼鏡が肉から想像され、理知的で、しかし狂った男の顔へと変わっていく。

 

「簡単なのだよ! 実に単純だ! 全ての存在はこの世界にとっての一端末であり、世界を構成する部品だ。故にこそ、ソレを超えた芸当などは出来はしないのだ。人間も、魔も、天使も、悪魔も、神も。何もかもがだ!」

 

 だが、と、声は続いた。

 にやりと口が裂け、笑い顔は何よりも恐ろしいものへと変わり、その視線は聖へと向けられた。

 

「世界にとっての原理、当然である現象ならばどうか? 答の求め方など簡単だ。やってみればいい」

 

「まさか、貴様……!!」

 

「そうだ、そのまさかだ――」

 

 人狼は、両手を広げ天を仰いだ。

 

 

 

「そうだ、そのまさかだ――」

 

 一泊の間を置いて、ソレは狂気とともに高々と声を上げた。

 

「存在が不可能ならば、それよりも高次の、在ることが当たり前で、存在のような器に収まらない『現象』――」

 

 

「『脱落者(リッチモンド)』か……ッ!!」

 

 ……狂ってる!!

 

 『脱落者』は『世界』の自動防衛――内包してしまった異物を削除、または適応させる機構により、現象に成り上がってしまったモノのことだ。

 一般的には、『魔力』の長期保有、もしくは過剰精製により、『存在』から『現象』へと書き換えられたものを指すが――

 

「そう、その通りだよ『最強(ニーズヘッグ)』殿。我らは全てを可能とするモノである『至高(アルティメイト)』へと至ったのだよ」

 

「『至高』だと……? あれが、そんなものな訳が無いだろう!!」

 

「否。あれこそが『至高』なのだよ。確かに、大抵のものは理性も知性も、全てを亡くして即座に現象として組み込まれ、やがては世界に消されるが――我らは、知性を保ち続ける秘術を開発した」

 

「不可能だそんなことは……ッ!!」

 

 不可能だ。

 『脱落者』と成れる者はそうはいない。

 何故ならば、『魔力』を異常として世界は先ずソレを修正しようとしてくる。

 それを防ぎきった後、それでも尚魔力を精製し続けた者が『脱落者』へと成り始めるのだ。

 

 だが。

 

 己自身を根本から書き換えられていく感触に、耐えられるわけが無いのだ。

 激痛を伴い、良くて精神崩壊の末に死亡。普通ならば現象に成った後即座に世界に抹消される。

 

 それらを弾き、己が意志を保ち続けたモノのみが『脱落者』へと成り上がる。

 しかし、だ。それらを耐え切ったモノですら、心が正常ではいられないのだ。

 

 夢、希望、野心、好悪。

 

 様々な思いで成ろうとした筈が、しかし意味は無い。

 彼らに理性はなく、最終的な目的の為に様々な策を持つ。

 彼らは理性を失くし、剥き出しの欲望と高度の知性を併せ持つ。

 

 その力は下手な『神』よりも強く、幾度も地形を変えたことが在る。

 討伐するためにSS退魔師が十数名必要であり、『最強』ですら相打ちになる可能性すらも在る『現象』。

 

 それが『脱落者(リッチモンド)』。

 

 しかし、見上げる形で見たソレは、口端を吊り上げその叫びに冷静な答を返す。

 

「いいや、出来るのだよ我らには。だからこそ、我が兄は美歌に不完全ながらも『不死』の術式を植え込み、そして今尚ソレは保たれている」

 

 男は笑う。無邪気に狂った笑顔で。

 

「だからこそ――君に来てもらう、美歌。君は君のお母さんと同じ、大事な大事な、サンプルだからねェ……」

 

「い、いや……っ」

 

 弱弱しい叫びは聞かれる事は無い。

 ソレは一歩一歩、確かめるように彼女へと歩を進めていく。

 

「ああ、それにしても本当に腹が立つね。何故家からも逃げ出した兄がこんなことが出来るのか……世は無常というものだね?」

 

 確かに、聖にかけられた物が『脱落者』によるものならば納得がいく。

 異常なまでの不死性。存在の死亡すらも撤回するほどの効力。

 だが、それでも理性を保った『脱落者』? 馬鹿げている。

 

 そもそもの前提がおかしいのだ。

 痛みに耐えられる人間は居ても、存在そのものの痛みに慣れている存在など居ないのだ。

 故に、それは理性などではない。

 理性でないとすれば、それは――

 

「意志、か……」

 

 何もかもを跳ね除けて在る意志。

 それこそが、存在の根底として在るものだ。

 意志がなければソレは生きているとはいえない。しかし、意志があればソレは生きているといえる。

 

「……貴様には、意志が在るのか? 何者にも揺るがない、確固とした意志が」

 

「在るに決まっているだろう? なければ、このような面倒なことせぬよ」

 

 嘲るような声音でも、確かに其処に意志は在るのだろう。

 物理的、魔術的、状況的な証拠以外にも、ソレは自分の意志でこうしているのだ。

 

 ならば、意志の無い自分が勝てるのか?

 二年前に消失した意志を持たない自分は。

 

「私は『聖』の家を復興させる! 誰かの手など借りずとも、一人でな!! 私は、もう一度、人々を助けるために……!!」

 

 ――だが。

 破錠した意志は、本当に意志といえるのだろうか。

 ソレを否とすれば、自分は、

 

「――だから、今此処で何人死のうが構わない。人の視線が未来にしかないのだから――なァッ!?」

 

「――ッ!!」

 

 叩きつけられる衝撃を『赤神』で裂き、そのままに相対する。

 確信する、これは魔術でも『魔法』でもない。

 

 ――『概念』か。

 

 意志を引き金として現在の事象を越えて奇蹟を顕す伎。

 『異端』でないのならば、『神格』もないソレは――

 

「貴様も、『脱落者』か……?」

 

「だから、私の場合は『至高』だと言っているだろうに」

 

 大して変わらない。

 

 ……いや、変わるのか。

 

 知性を持った『脱落者』か。

 しかし、結局は理性を亡くし知性を欲望にしか使えない『現象』。

 意志と欲望のみで構成される『災厄』。

 決して、『至高』等ではない。

 

「貴様に知性が在るのか?」

 

「視て判らないかね?」

 

「ただの欲望に身を任せた獣だろう」

 

 嘲笑。

 知性? 理性がなければ結局は欲望しかない獣だ。

 生家復興。亡兄の超越。他者の救済。

 

 なにもかもが己の自己満足による欲望の発露。

 それは、只の害悪と成るしか術は無い。

 

 ――ならば。

 

 あらゆる工程を無視して殺しつくせ。

 

 

 ――『不理解における我時間(ストレンジ・タイム)』解凍開始。

 

 殺す。ああ、殺すのだ。

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すコロスころすこロすコロす殺ス。

 

「おやおや、少し挑発した程度でその狂いよう……『最強』殿、貴方も結局は『最強』なのですねぇ?」

 

「殺す」

 

 殺してやる。

 眼球を抉り臓物を腹を打ち破って抉り出し口を裂いて下を落とし喉を掻っ切って潰し四肢をmm単位で切り落として殺す。

 魂も何も残してやるものか。

 

「まあ、いかに私達と言えど『最強』の一角と無心に戦うほど、能無しではないのでな? この場は一時、退散させていただこうかね?」

 

 見る。

 ソレが空間を跳躍してどこかへと消えようとしているのを。

 

 ……逃すか……!!!

 

 ――『魔眼』、発ど――

 

「いや、イヤ、ぃ、やぁあああああああああ゛あ゛!!?!?!?!」

 

「っ!?」

 

 突如として聖が金切り声を出す。

 視線を彼女へと奪われ、

 

「――では、後ほど其処の出来損ないをいただきに参ります」

 

「ッ、待て……!!」

 

 時間と空間を自己において限定して超越し、『切断』を叩きつける。

 しかし――

 

「まあ、腕一本ならくれてやろうではないか。かかかかかかかかかかかかか……」

 

 どさりと聞こえた物音、それは黒い長衣を纏った男の腕で。

 

「お、父さん、とうさん。とうさんの腕、あ、いや。いや。イヤ。いやぁ……!」

 

 振り上げた視界の先には、

 

「いやあああああああああああああああああ゛あ゛あ゛ッッ!?!!?!!!」

 

 涙と絶叫だけの、過去を見た者が居た――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 濃闇の中。一つの背があった。

 黒の長衣。背で括った長い漆黒の髪。

 細すぎるその背は、しかしその余分な肉を縦に伸ばしたかのように長い。

 無、と形容できるその表情。

 片眼鏡を架けるその顔は、確かに、朝闇たちに『人狼』と呼称されたモノと相違ない。

 ただ、一つ違う所を上げるとするならば、『人狼』は右に片眼鏡を架けているのに対し、その男は左へと架けていた。

 伏せられた瞳は、しかして微動だにせず。

 

「……まだ、動ける」

 

 ポツリと呟かれた声は、しかし森林によって聞こえはしない。

 暗く深い木々たちは、男の言葉を受け止め、しかし風に流していく。

 

「美歌も、アリアさんも、必ず、必ず私が生き返らせる……」

 

 無と形容できたはずの表情は、彼女達の名が紡がれた瞬間に、深い愛情と決意に満ちたモノへと変貌していた。

 

 ――――ありありと見せる、暗い双眸は、何者おも越える狂気によって形成される――――

 

 その姿は、段々と滲んで行く。

 そこに存在しないように。

 確かにあり、しかし存在し続けるものではないもの。

 『脱落者』は、只々己にとっての前へと進む。

 

「……それこそが、私達『聖』の家だったのだから――」

 

 ――己が狂気(意志)を持って。

 

 

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