死閃の位置 十一章

 

 

 ――朝闇要は自問する。

 

 何故だ、と。何故己には何も出来ないのか、と。

 その質問を聞けば、恐らくはほぼ全ての人々が首を傾げるだろう。何故なら、彼は地位と名声、名誉と実力、それに見合うだけの虐殺と汚名、そして何よりも力を手に入れてきた。

 実現不可能と思われた多重刻印礼装を実現し、数多の人を屠り去り、目の前に居る障害を呆気無く踏み潰し、だた愚直なまでに突き進んでいく。

 確かに、光り輝くような経歴では無い。寧ろ罵声を浴びせられ、忌避される様な事の方が多い。

 人外の無造作な虐殺然り、『転成』途中者の殺害然り。

 だが、それを補って余り在る程、彼は何もが出来ていた。

 

 だが、それは彼には何の意味も為さない。

 

 地位は虚構。名声は虚無。名誉は空虚。現実は伽藍。

 彼にとって、何がしたかったのかは、既に記憶に埋もれてしまっている。

 ただ在るのは、家族を誰一人として守れなかった記憶と、そんな無力な自分を呪った思い。

 そして、ただただ人外を殺したいという、単純な欲求。

 

 ――問いに対する自答は未だ、無い。

 

 

第十一章

 『愚者の融合 租悪の遊戯』

 

 

 

 

  深夜の繁華街を、高速で疾駆していく者が居る。

 一歩毎に風を穿ち、闇を纏い、ただただ前進していく神格者(バケモノ)が。

 黒いジャケットを靡かせ、茶色の短髪さえも穿っていく風に揺れるほどの速度。

 大柄な体躯はその巨体に見合う筋力によって中空を凝固させた物を蹴飛ばし、ただただ愚進して行く。

 一足毎に音の速さへと近づく彼。姿勢制御も必要なく、ただ己の力任せに前へと進んでいく。

 

「――ああ、ああ畜生! 本ッ当に楽しいなァ要!! お前って奴はよォ……!!」

 

 歓喜に塗れた表情は、黒い。

 見開かれた双眸は、普段の新緑から打って変わり漆黒に染まっていた。

 引き裂けた口は明らかな嘲笑み。

 その形相はまるで――闇を体現するかのような。

 

 不意に、一つの紅色の灯が生まれた。

 それは男に追従するかのように動き、次第にその形を変える。

 鬼の瞳のような灯は段々と広がり、やがてそれは門となった。

 真紅の灯を突き抜けるように飛び出したのは、少女。

 細身の体に意匠に凝ったフリルを幾重にも纏い、黒のゴシックドレスをはためかせている。

 彼女は門を潜り抜けると同時に、中空を一度蹴り、男の傍へと追い付く。

 艶やかな黒の長髪は後頭部へと纏め上げられ、少女は華麗に舞う。

 

「――核さん」

 

 暴風の中で確かに響いた声は、まごうこと無く男の耳朶を叩いた。

 男――三上核は、視線を後ろに向け、少女を確認すると同時にその腕の中に収めた。また、少女もそれを当然として受け入れ、彼に抱えられて空を行く。

 視線は前へ。両者共に同じものを見つめるが如く。

 

「よォ美紀。首尾はどうだ?」

 

 歓喜はそのままに、愛する者へだけ送られる笑顔。しかしてその実、それは彼女へと送られた笑顔ではない。

 笑顔は、ただ己に歓喜を齎してくれるモノ(災厄)のみに向けられる。

 

「ええ、良好ですよ、核さん。ただ、一筋縄では行きませんでしたが……」

 

 微かに眉を落として苦笑する鬼灯。しかしそんな彼女の頭をぐりぐりと撫でるのは三上の大きな手だ。

 歯を剥いた豪快な笑みは、それだけで見たものに覇気を注ぐ。

 

「悩むことは無ェよ。目当てのモンを手に入れてくれただけで上等だ。それに――」

 

 ハッ、と一笑。

 

「――俺達の障害は、俺達で取り除くんだしな?」

 

「……恥ずかしいので、人前では言わないで下さいね、それ」

 

 頬を紅潮させた鬼灯が身動ぎしながら言う。対する三上は愛しい者の愛しい動作に目を細め、更に頭を撫で繰り回す。

 頬を斜め下に逸らした鬼灯は、しかしそれでも三上の首から手を離すことは無く。

 

「あんまり撫でないで下さい……。子供じゃないんですから……」

 

「ははッ、悪ィ悪ィ。つい可愛くてなァ……」

 

 苦笑する三上に反省の色は無い。

 未だ赤い頬のまま、鬼灯は溜息を吐いた。

 

 視線は逸らさず、三上は宙を蹴る。

 そのままの勢いで足元の闇を解除し、近くにあったビルの屋上へと降り立つ。

 

 そこは繁華街の中央に位置し、最も高い建造物。

 強力な灯が下を照らし、彼と彼女を下から照らし出す。

 風が流れ、ジャケットとゴシック風のドレスがはためく。

 

「にしてもまァ、そっちの方で掴んだ情報はどうだ?」

 

 三上が事前に、彼女に依頼していたことがある。

 それは『聖』と言う家系の調査。

 『表』の世界でもそうある様に、『裏』の――『非現実』の世界でも、『言霊』という言葉がある。

 言の葉には魂が――(チカラ)が宿ると言う。

 事実、『言霊』を元にした超高速詠唱魔術も実在するが、この場での意味は違う。

 この世界の苗字は、その家柄の地位、名声、過去等を表す。

 それほどまでに厳しい枷が設けられている中で、『聖』の字が入る家は殆どない。

 何故ならば、その字を所有する家は、ほぼ全てが『教会』所属だからだ。

 

「期待に添えられるほどの成果は無いかもしれませんが、一通りの情報は手に入りました」

 

 実際、欧州方面の魔術師・異能者の家系では、『神聖な』・『清らかな』などを意味する語句が入っていることは珍しくも無い。

 しかし、日本ではその言葉が入っていることは少ない。理由としては日本が『協会』の本拠地であることと、余り信仰が厚くないことが理由として述べられるだろう。

 無論、日本にも幾つか『教会』傘下の家系は存在する。だが、それは圧倒的少数である。

 その圧倒的少数派の中の一つが『聖』家であり、日本では珍しい医療系魔術の家だった。

 

「医療系統の魔術に特化した一族であり、『教会』に認可された治癒術者であったようです」

 

 言いつつ、宙へと手を突き出す鬼灯。何の変哲も無い、ただの貫手は――

 

 宙へと沈んだ。

 

 純真の白は、その手首より先を宙へと埋めた。

 見れば、手首を何かが覆っている。それは絶えず蠢き、しかし色の変化が無いもの。

 それは闇。確固とした形は無く、されど全てに成り得るモノ。

 一度手を捻り、何かを掴んだ感触を確かめた後、

 

「……っ」

 

 一気に引き抜かれた。

 闇から引き摺り出されたモノは、長大な和弓。漆黒の塗装を施され、闇よりも艶やかな光沢を纏う。

 彼女はそれを一度軽く上下に振り、

 

「――ふ」

 

 手首のスナップで一回転。中央を握り確定し、回転の勢いを殺さずそのまま身を回す。流れる黒はされど終わりを持つ。

 弦を弾き音を高く響かせ、空裂音を開始の祝詞(キーワード)とする。

 

「――召しませ。我らが御主」

 

 胸元から護符を数枚。宙へと放り弓を一閃すれば即座に魔術が発動する。

 式名・『誘う出雲の旅愁(ムラクモ)』。

 超高周波の音が周囲の風の精霊を制御。周囲の雑音を消去。振動数をゼロに。

 今世界に在るのは己の音のみだ。

 

「司るは風。止まる事無く流れ、移ろい往く継承の担い手」

 

 全天。既に闇に包まれた世界。未来と混沌、不確定を示す暗闇。

 その中で、一つだけ確かな物を作るために、舞い、奉じる。

 それは必ず在るもの。例え全てが静止しても、必ず感じ続けるもの。必然として必ず付随するもの。

 

 音だ。

 

「されど御主が担うは風ではなく。担うべきは広がり逝く狭間の音律」

 

 口ずさむ術式に遅延は無い。滑らかとも言える舌の動きはそれだけで艶かしい。

 同時、下げられていた右手に黒の和弓が携えられ、

 

「――」

 

 言葉ではない。しかし『意志』を含んだ『言』が空へと放たれる。

 直後。手首のスナップ付きで跳ね上がった和弓が空を狙い、引き絞られ、

 

「示せ――『応える緑進の道(ヴァーヴズ)』」

 

 引き絞られた弦から深緑の光矢が放たれる。

 籠められた式題は探知。

 音を振動としてのみ捉え、生物が固有で持つ振動を術者に返す魔術。

 それ単体のみでは半径百メートルも有効範囲にはならない。だが、事前に静止術式を放ち、周囲の振動数を限りなく零に近づけることによりその有効範囲を数キロにまで拡大させていた、

 彼女から上空二十メートルで固定された矢は、一度微かに発光したかと想うと――、

 

「――響け」

 

 爆ぜた。

 元の矢があった位置を中心点として、人間の可聴域を遥かに超えた振動が魔力と共に放射状に放たれる。

 音の速さで広がる響きは、有効範囲の限界点まで行った後、同等の速さで己の元へと戻って来る。

 

 暫しの間残身を留め、反応を待つ。

 

「おーおー。精度も速度も上がってるじゃねェか。上出来だ、美紀」

 

 からからと己の事の様に笑う三上は、遥か遠くの風景までに眼を通し、

 

「風の奴らも素直に言うことを聞いてるしなぁ。……精霊魔術と神道の掛け合わせかコレ?」

 

 微かに指を曲げ、三上は虚空から半透明のモノを取り出した。それは微かに発光し、様々な言語が入り混じり絶えず一定の感激を持って変動するもの。

 ソレは空間に保存された術式の残滓。先程放たれた探知の欠片である。 

 

「空間から引っ張り出すのは止めて下さい。私自身の術式を盗まれでもしたら困ります」

 

 出来るのは核さんくらいしか居ないでしょうが、と付け足し、肩を落とした鬼灯の表情は、眉尻を下げ、力を抜いた眉と唇の弧によって形作られた苦笑。

 既に下げられた弓は、起動時の発光を収め、殆ど夜闇と同化してしまっている。

 

「気にすんな気にすんな。態々手ェ出して来るような馬鹿は居ねェって」

 

「まあ、核さんに匹敵する、と言えば、確かに世界でも屈指の方たち程度でしょうが。……忘れていませんか? 私自身は、酷く弱いんですよ……?」

 

 苦笑しつつ、されど彼女は遠くを見て、

 

「とは言え、精進できる場所はまだまだ有ります。一朝一夕で辿り着けるほど近くは無いでしょうが、それでも手が届くと知れただけでも、私にとって幸福ですよ」

 

「そうだな。まあ、生憎と俺と美紀には時間なら幾つも有る。ま、焦らず気楽にやって行こうや」

 

 無言で頷く彼女を見て、三上は笑みを深くして頭を撫でた。

 微かに風が吹き、ソレは一斉に鬼灯を中心点として集まった。

 

「お? 返って来たか」

 

「ええ、その様ですね。少々待ってください、解析します――」

 

 一言で区切り、彼女は魔力に脳を浸し、その思考速度・演算能力を上昇させた。

 彼女の脳に入ってくるのは半径十五キロの全方位映像だ。ただの映像としてではなく、精霊を始点とした為、視覚情報だけではなく、各地の瘴気・霊力・精気等の概念としての情報も入ってくる。

 それらは並の人間であるならば即座に脳が焼き切れる程。しかし、彼女はそれらを的確に処理し、必要な情報を拾っていく。

 数秒の間。彼女は微動だにせず――

 

「――ッ!!? か、ぁぐ……!!」

 

 突如として崩れ落ちた。

 

「どうした美紀!?」

 

「ぁ――、つぅ……っ!!」

 

 蹲り、頭を抱えた彼女へ即座にかける三上。

 息は切れ、顔面蒼白の状態の彼女は、しかし手を彼の肩へと伸ばし、

 

「ぁっ、……核、さ」

 

「良い。未だ喋るな」

 

 肩を抑えて体を起こそうとする彼女を三上は制した。地面との間に膝を入れてせめてもの緩衝材とする。

 未だ荒い息を吐き、口端から垂れた透明な液が彼女の苦痛の酷さを物語る。

 気道が締まる事によって鳴る高音は、彼女の意志によるものではなく反射的動作。ソレが余計に彼女を苦しめる要因となる。

 幾度も咳をする彼女を、しかし三上は目を逸らさず、確かに鬼灯の手を握っていた。

 

「けほっ……ぅ、く」

 

「喋れるか?」

 

「は、ぃ……ぇほっ」

 

 鬼灯は徐々に赤みが差しつつある唇を動かし、しかし咳に邪魔をされる。

 左手で鬼灯の背中をさすりつつ、三上は周囲へと不知覚の闇を広げていく。

 

「どうやら……っく、探査の、音にっ、何かを混ぜられた、ようです……ッ」

 

 三上の腕に縋り付く形で彼女が身を起こす。

 三上もソレを制さず、右手で彼女の背を支える。

 温い風が彼らを撫ぜ、運ばれた風が徐々に月を覆っていく。

 

「特徴は解析できたか?」

 

「はい。……ッ!? これは……!!」

 

 彼女が息を呑んだのと同時。

 三上が彼女を突き飛ばしていた。

 巨体に見合う膂力は、片手のみで彼女を三メートル程飛ばした。

 

「……ッ」

 

 背を打つ衝撃に彼女は声を出せない。

 眼を軽く閉ざし、背の痛みに耐える鬼灯。

 微かに歯を食いしばり、痛みを堪える彼女の頬に、黒い鮮血が散った。

 

「っ!?」

 

 頬を一度撫で、慌てた彼女が眼にした物は黒い血。

 それは神格者である、三上が傷ついたときのみに『発生』する綻び。

 

「――核さんッ!!!」

 

 悲鳴と言うよりも慟哭に近い叫びは、夜へと響く。

 

          ●

 

 悲鳴だ。

 それは魂を削る、悲鳴。

 

「来な、いや、見せない、で、あ、ぅや、いあ、イヤ、いやぁあああああああああああああ!!!!!!」

 

 感情と共にぶちまけられた魔力が大気さえも凍て付かせ、駄々を捏ねる様に振り回された両腕は容易く辺りを削る。

 大口を開け、瞳孔の開いた銀の瞳。其処から溢れ堕ちる雫は止まる事を知らない。

 人払いの結界などとうに消え去っている筈なのに、それでも彼女の砲声は――泣き声は響く。

 

「聖、さん……っ」

 

 そう、泣き声だ。

 コンクリートの壁に背を押し付けるようにして後退る聖。

 彼女が眼を見開き、しかし手で押さえつけ、それでも凝視する場所には黒く焼き付いた痕(・・・・・・・・)

 長さ二十センチ程の、先端が五つに枝分かれしたその痕は、聖の叔父と名乗る『脱落者』の腕の残骸痕。

 切り落とされた腕は既に黒い塵芥となり、世界の異常な『現象』として一部を破損したまま消えた。

 それを拒否し、拒絶するかのように聖は後退る。

 それはまるで赤子だ。

 理解できない外界への恐怖と拒絶により、声を上げ、四肢を振り回す。

 しかし、彼女は赤子ではなく、そしてその力も相応である。

 爪の一撃でコンクリートが抉れ、振り回した拳が地面を穿つ。

 泣き声には魔力が叩き込まれ、その『神血』特有の膨大な魔力が強力な『魔の声』として機能させている。

 

 ……先ずは、結界を配置……!

 

 この場に置いて優先すべきは『神秘』の秘匿。

 故に一度、彼女のことを頭から捨て置き――

 

「っ?」

 

 そう思考した直後に、微かに胸の中に痛みが発生する。

 胸部に攻撃を喰らって居ない。何かしらの病があるわけでもない。

 それでも、何故か消えない。

 

「……」

 

 舌打一つ。苛立ち紛れに術式を構成し、左手の『魄穿』を起動。術式を構築。

 先ず空間を四つ、正方形に半径500メートルに接続。ソレに被せる様に同じ形を形成し、八角形へとする。

 最初の四角に、『囲う』事による封印の基本概念を骨格とし、抑制と浄化、その上に重ねた四角に束縛を付随させ、さらに八角形によって効力を増加させる。

 朝闇要が得意とする封印結界。本来ならば処刑場として機能するはずの其処は、今では外界と隔絶を行う。

 

「違えろ愚者(kool)。間違えよ放浪者(survibe)。曲解せよ塵芥(mercinerlly)

 

 口ずさむ詠唱は、気を抜けば泣き声に言霊を掻き消されてしまう。

 邪魔だ、と想いつつも、泣き声を上回る魔力を乗せて接続する。

 

「接した涙。蹲る鏡に喜劇の断頭を――」

 

 一条の文字列が『魄穿』の刀身を走り、補助としての効果を発揮する。

 黒の光が迸り、微かに手を染めると同時。

 

「――打ちつけろ、『逃した栄光(グロリアス)』!」

 

 振り下ろされた『魄穿』が空間を穿つ。

 ガラスが飛沫くような音と同時、黒の短剣は空間に皹を発生させその刀身を沈めた。

 

          ●

 

 同時刻。

 要と聖の中間点を中心とし、先ず半径500メートル四方の地面。其処に空間を通して要の打ち込みが叩き込まれた。

 高いビルに囲まれた表通りとは反対、裏路地の其処に微かに黒く発光した一撃が入った。

 術式の羅列を僅かに残しつつ、穿たれた地面は即座に魔術陣となる。

 幾重にも重なった陣がそれぞれに回転を始め、その効力により現実を侵食し始める。

 四方に叩き込まれた陣は、一度同期するかのように明滅し――

 一直線に中心へと光を伸ばした。

 それは音も何も無く、静かに、されど猛烈に伸びていく。

 黒の線は全ての障害を無視して急ぐ。

 

          ●

 

「――っし」

 

 即興にしては上場だ、と内心で一息をつく。

 『逃した栄光』とは元来、対象を一定領域から逃走させない為に空間と通常の空間から切り離し、其処を戦場とするための『固定』の特徴、『空間』に属する魔術だ。

 本来ならば相手に重圧等を与えるが、今回は領域内の浄化と抑制を付与し、通常通りなのは相手の束縛くらいだ。

 ただし、現状で完成しているのは浄化と抑制を司る四方のみで、束縛を司る内角の逆四方はまだ作動させていない。

 と、言うのも、束縛をしたとしても、今現在の聖に通用するかどうかがわからないからだ。

 固定、束縛といった特徴は自分の得意分野だが、しかし一度は『五領結核』を力づくで破られた上、正気を失い、普段は作動しているリミッターが外れた彼女に生半可な術式が通用するか、判断しあぐねている。

 感情の爆発と共に振り回される爪牙は、『神血』で在るが故に並大抵の魔術を引き裂く。

 慟哭、と表現するのが一番であろう彼女の様相は、近付く事さえも出来ない。

 ぼろぼろと涙を零し、口を開いて搾り出すのは恐怖と悲哀と苦痛。そしてそれらを拒絶する幼子の声。

 来ないで、嫌、嫌い、キライ、きらい、キライキライキライキライキライキライキライ――

 うわ言の様に彼女は言葉を繰り返し、爪を振り回し、髪を振り乱す。

 

「……っ」

 

 そんな彼女を見ていると何故か掻き毟りの情動が心を砕く。

 痛み、ではない。怒りでもなければ殺意でもない。

 遠い昔、こんな感情を持っていたのを微かに覚えてはいる。

 だが、このような状態の者など幾千も、それこそ無数と言えるまでに見てきた。

 『転生』途中の者や、それこそ『脱落』を失敗したものなどこれ以上に酷い有様だった。

 しかし彼らに抱いた想いは殺意。それだけだ。

 訳が判らない。

 彼女と彼ら。一体何が違うというのか。

 

「やぁ……!」

 

 泣き叫ぶ想いも、振り回す痛みも、打ち付ける信念すらも、彼らと大差ないというのに。

 何故、自分はこうも――

 

「聖さん……」

 

 勝手に呟いた唇は何を言おうとしたのか。

 歯に力が篭り、軋む音。それが何故か、不思議と合致する。

 彼女をどうすることも出来ない。救うことさえも出来ない。苦痛を和らげることも、きっと己には出来ないのだろう。

 それはずっと、ずっと前に感じた最も忌むべき感覚。

 

「畜生……!」

 

 無力感。実質的、己はこの場において無力だった。

 彼女を捕縛したところでどうなる?

 彼女を治療したところでどうなる?

 彼女を保護したところでどうなる?

 答えは無く、応えは否と寄越すのみ。

 精神に干渉する術式等は危険過ぎ、このような状況に用いる様な代物ではない。

 眠りを誘った所で、彼女が覚醒した直後に同じようになるのは眼に見えている。

 『家族』が亡くなる――否、亡くなった、というのは、精神に多大な打撃を与える。

 痛み、悲しみ、怒り、憎しみ、涙、血。

 彼女がどうかはわからない。だが、己は気が狂うほどの痛みを、悲しみを、怒りを、憎しみを得た。

 涙を流し、血を握り締め、ただ己の無力を呪って亡骸すらも抱きしめることが出来ず、ただひたすらに叫び、憎悪の声を漏らした夜。

 家族の死が受け入れられず――拒絶の意志を持って泣き叫んだあの時は、今ですら鮮明に思い出せる。

 彼女は、どうなのだろうか。己と同じように『何か』を得たのだろうか。

 痛いのだろうか。悲しいのだろうか。怒っているのだろうか。憎しみを抱いているのだろうか。

 涙を浮かばせた瞳は、しかし何かの明確な感情があるとは思えない。

 

 ……どう、すれば……!!

 

 手を差し伸べて良いのか。救おうと、そんな意志を持っても良いのか。まして――

 

 ――何か、出来る事があるのか?

 

 彼女は彼女自身以外を拒絶し、恐怖に泣き声を上げ、

 

「ヤだよぉ……!!」

 

 まるで、助けを求めるように涙を零して。

 来ないで、嫌だ、と言う言葉は、恐らく、きっと心の反面。

 己はどうだったか。

 全て亡くした夜に、来るなと言って、しかし誰かに救いを求めていたのではないか。

 拒絶するように刃を叩きつけ、しかし抱きしめられることによって安堵を得たのではないか。

 彼女が己と同じかはわからない。否、きっと彼女と己は違う。

 過去がどうとかではない。恐らくは、彼女は前へ進もうとしている。それが何よりも決定的な違いであり、他の違いを小さくする要因でもある。

 今出来る事は何だ? 彼女は何を求めている?

 他人の思考を読むことは出来ず、他人の思いを推し量ることなどした事も無い。

 手を差し伸べたことも無く、やってきたのはそれら全てを切り刻んだ事だけだ。

 救った経験は無い。それでも、手を差し伸べる程度ならば、己にも出来るのだろうか。

 

「ぃゃあ……っ」

 

 過去の自分は救いを求めて拒絶の声を上げた。

 彼女はどうなのか。判らない。

 ただ、泣き声も悲鳴も、感情の発露すらも、嫌だと、助けて言っている気がして。

 

「――」

 

 気づけば、前へと進んでいた。

 

          ●

 

 炎。赤い。血。真っ赤。

 父さんの腕が落ちて、血が流れて。

 燃えた。家が、紅い。焼ける――眼、イタイ。

 何で? 父さんは何もしてないのに。何で家が壊れて、何で母さんが父さんなの?

 痛い。痛い。無くなってく。亡くなってく。

 どうして? 何があったの? どうして母さんは体が潰れてるの? ねえ、どうして?

 アタシが悪いの? ちゃんと練習しなかったから? 何度も反抗したから?

 ねえ、何で誰も応えてくれないの? 何で――

 

 ――アカイままなの?

 

「――カ、ギギ、げげげげげぎぎぎぎががががあああああ――……」

 

「ひ!?」

 

 アカイ。真っ赤な炎の中。

 真っ白な三日月が哂って。紅いナニカを引き摺ってる――?

 

 ――ずる、べちゃ。

 

 鎖で引き絞られてる、真っ赤な、から、ダ?

 長い、長い髪が血で滴って。

 

 ――ぐちゅん、ごぎ。

 

 手足から、長い釘が生えてる。

 

 ――がりがりがりがりがり……パ、き。

 

 ぐるりと、上下逆様の顔が――母さんで。

 

「ぁ、……ぃゃ……!」

 

 来ないで、嫌だ、ウソ、何で、何で? いや、いやだ、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや――

 

「美…、…歌……」

 

 光の無い眼が、こっちへ向いて、とってもアカイ、キレイな唇が動いて。

 

「――ニゲロ」

 

 視界が炎に染まった。

 赤い。紅い。アカイ。熱い、痛い熱い苦しいあかいイタイ嫌だいやだいやだいやだ――!!

 

「ゃあ……!!」

 

 真っ白の三日月だけが哂ってる。

 来るな、嫌だ。来るんじゃない、来ちゃ駄目だ、嫌だ、いやだ……!

 

「――美歌。ほら、行こう?」

 

「あ……」

 

 父さん。父さんだ。いつもの微笑み。黒いローブ。優しい目元に片眼鏡。

 間違いない、父さんなんだ。

 

「父さ――」

 

「――あァ、とうサんだヨぉ?」

 

「――っあ」

 

 三日月。白い。穢れた、汚い。

 違う、父さんじゃない。こいつは――

 

「さあ、――殺してあげよう」

 

「っあ、い、や……」

 

 逃げる。地面を蹴る。蹴る。這いずる。

 眼が、逸らせない。

 それでも、逃げる。嫌だ、死にたくない。来るな、来ないで、嫌、

 

「いやぁああああああああッ!!」

 

 ぞぶり。

 

「……、え」

 

「か――ぁ、ぐ、美歌……?」

 

 何で? 何で逃げようとしたのに、腕が、父さん、

 

「何で、父さんが……!?」

 

 爪が、お腹を突き破って、え、何で、何でなのよ、嫌だ、こんなの、イヤ、

 

「あ――あ、ぃや……!!」

 

 もう――誰も来ないで、イヤだ、こんなのもう、たくさんだ。

 

「いやだよぉ……!!」

 

 誰か、助けて。

 

          ●

 

 黒い血は、艶やかとも言える色彩をコンクリートの灰色に付け足す。それが白磁の如き滑らかな乙女の肌ならば尚更だ。

 多量に零れ落ちた鮮血は流れることも無く、ただ黒い闇となって溶けて逝く。

 悲鳴と同時に顔を上げた鬼灯が見たのは、胸から人狼の腕を生やした三上だった。

 

「――あ」

 

 長身の胸を貫く腕は更なる高みから繰り出されたものだ。

 黒い血に塗れたそれは茶色の獣毛に覆われ、滴る血は爪を漆黒に染めた。

 どさりと、モノを打つ音は三上が膝を着く音だ。

 脱力した体は地に伏せ、そのまま人狼の腕が抜ける。

 がぼっ、と言う空気音と共に連動して黒い雫が噴出す。

 液体の跳ねる音が引切り無しに響く屋上は、一切の光無く静寂に包まれる。

 

『……悪名高い『祖悪神』もこの程度、か』

 

 響いた重低音の持ち主は金の眼(・・・)をした人狼。眼前へと掲げた腕を退屈交じりに振り払い、黒を辺りへと落とす。

 微かに歪んだ獣面は、倒れ臥した三上をつまらない視線で見下す。

 

『ふん、つまらん。……我々(・・)が出る必要など、何処にも無いではないか』

 

 一人ごちる『人狼』は、その巨大な体躯苛立ちに振るわせる。

 しかし、

 

「――『霊は揺らぐ』!!」

 

『ぐっ!?』

 

 澄んだ一言と共に人狼の腹部から打撃音が響く。

 次いで二発、三発と連続し、最後には暗闇を振り払うように蒼光が一筋、走る。

 

「『言の葉が沈む』!」

 

 一括。

 魔力と独特な語調を乗せた言葉は、真っ直ぐにその意味する所を成す。

 鬼灯の足元から蒼い光が人狼へと伸びる。

 視認した人狼は身を後ろへと跳躍させようとして一度体を沈め、

 

『――!?』

 

 驚きによる呻きを漏らす。

 その足元は既に闇の中に沈んでおり、僅かにさえ動かすことを許されない。

 その事に機を盗られた瞬間、蒼光が幾筋も人狼の表面を走り、

 

「『管に包め戴の縁』……! ――『観測せし虚実の悪魔(ラプラス)』!!」

 

 瞬間――迸る血線。

 同時に闇色の鎖が人狼を繋ぎ止め、闇の地面へと括り付けた。

 

「――核さん!!」

 

 人狼が仰向けに倒れ臥すのを確認するのと同時、彼女は地面を蹴って三上へと急ぐ。

 悲鳴と同質の叫びは彼女の内心を表し、息も荒く三上の前に膝を着いた彼女は彼へと手を当てる。

 彼女の手を通して三上へと伝わるのは『闇』の魔力だ。

 彼女が彼の『巫女』であるが故に出来る芸当。

 

「起きてッ、……起きてください!」

 

 必死の問い掛けにも、三上は動きはしない。

 ただ背中の穴から黒い血が溢れ返るだけ。

 顔面蒼白、という表現が当てはまる鬼灯は、しかしそれでも魔力を絞りつくす。

 

『無駄だ。我らが御主の奇跡に、邪道の亜神が適う筈も無い』

 

「――!?」

 

 鬼灯の背後。束縛された人狼が、皮肉気に笑う。

 その両腕には蒼い光の残滓。それは彼女の束縛を強引に引きちぎった証だ。

 

「何で、何時の間に……!?」

 

 絶句するのと同時、背後へと振り向いた鬼灯はあるものを眼に留める。

 それは爪だ。赤く塗れた腕の中、その鋭い爪のみが青い輝きを持っていない。

 それはつまり、

 

「爪で、あの束縛を……!?」

 

『然り。あの詠唱――。恐らくは神道の『言霊』か。貴様は良くやった。その歳で『言霊』を用い、我らが御主の加護を受けた我に一時とは言え束縛を与えたのだ。胸を張ると良い』

 

 歯を剥いた笑みは嘲りの視線を元に形成される。

 三上を庇う様に人狼と向き合う鬼灯は、しかしそれでも尚魔力の供給を途絶えさせない。

 それは彼女の信頼の証であり、また、それ以外に打つ手が無いということでもある。

 

『そう、胸を張るのだ。その――最後の瞬間までな!!』

 

「ッ!!」

 

 振り上げた爪を視認した直後、鬼灯は手に持っていた黒の和弓――『欝蔭』を咄嗟に前へと出し、即座に右手に魔力を集中させた。

 筋力の強化が果たされると同時、人狼の爪が振り下ろされる。

 

「ぐぅッ!!」

 

『――ッ!! その弓……!? 一体なんだソレは!?』

 

「かの……ッ、『神の手』、朝闇様の手によるものですよ……!!」

 

『そうか、此処には憎き『緋逆聖典』が……!!』

 

 細い弓伸を軋ませながらも一撃を完全に受け止め切れたのは、偏に要の鍛冶の腕が良い為だ。

 だが、世界で最高品質の一品と言えど、術式切断の概念を宿しているモノをそう何度も受け止めきれるわけではない。

 

「――核さんッ!!!」

 

 彼女自身の力では人狼相手に勝利を掴むのは難しい。まして、護る者があるのならばなおさらだ。

 だからこそ彼女は信じる。彼女の最愛の神を。

 

『彼奴が居るのならば時間を無駄には出来ぬ……!! 邪魔だ小娘ェッ!!』

 

 獣の双眸にぎらついた光が宿る。それを何と言うか。――欲望だ。昇進。名誉。

 それは負の感情。闇に属し、ナニカを惹き付け、壊す。

 欲望は容易く精神を堕落させ、正常な判断を鈍らせる。

 

「――面白ェなァ?」

 

 だから、なのだろうか。

 人狼が、『闇』と言う存在を忘れてしまったのは。

 

『――ガッ!?』

 

 声が彼ら二人の耳に飛び込んだと同時、人狼は吹き飛んでいた。

 蒼い血反吐はその肉体が人外である事を示す。

 直後、宙に突如として現れた球状の『闇』がソレを覆う。

 一瞬にしてその身を収縮しきり、そして消えた後には何も残らない。

 そしてそれは、攻撃を受けた人狼の体にも適応される。

 

『――ぎ、ィいいいあががががががあああああああああああッッ!?』

 

 左下腹部。そこは人狼が打撃を受けた場所だ。

 打撃は重く、肋骨を圧し折り、ただの一撃だけで内臓を破壊した。

 

 本来ならば。

 

 現在の其処は、黒の『闇』が蠢き、――咀嚼している。

 がりがりと。ぐちゃぐちゃと。

 明らかに異音を立てつつも、障害である筋繊維・骨格共に『闇』が喰らっていく。

 

『あっ、が、ぎィ、があああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!?』

 

 ――連続。

 体を文字通り、直に食される感触は、おぞましいのと同時に激痛を齎す。

 悲鳴は、『闇』の壁に遮られて外界へは届かない。

 人狼を打撃した腕は黒。拳撃は物体の高速移動に伴う水蒸気爆発の尾を引いている。

 

「核、さ――ッ」

 

 彼女の息が止まる。

 振り向いた視線の先に在るのは、狂笑。

 爛と煌く黒の双眸は、明らかに哂っている。

 歯を剥いた笑みはただただ玩具を得た子供のようで。

 

『さァ――楽しませろよォ?』

 

 彼女は微かに嘆息。

 こうなってしまってはどうすることも出来ないのだと、彼女は知っている。

 彼女は彼へと背中を預け、一息。

 

「お遊びは程々に、ですよ?」

 

『あァ……気が向いたらなァ……?』

 

         ●

 

 吹き荒れる――それこそ、濃密度の突風と同じ程度の魔力は、それ自体が既に凶器だ。

 無意識の内に吐き出されるソレには、恐らくは彼女の保持する属性『氷』か『風』あたりが混じっており、無防備に近付けばそれだけで文字通り『身も心も』氷付けにされかねない。

 魔力とは、感情、信念、理想、欲望、衝動、理性、体力、精神力、魂、精気、果てには『無意識』すらも原料として精製される。

 そしてそれらには須らく――若干ではあるものの――『原料』となったモノの残滓がある。

 完全な魔力の精製は少なくとも人間には不可能であり、その残滓を感じ取るのはさほど難しい事ではなかった。

 

「来ないでよぉ……!!」

 

 果敢無げな泣き声と暴力的な魔力は別だ。消え入りそうな声は押し潰されそうな魔力を叩きつける。

 相も変わらず拒絶の声を上げる彼女は、その獣の爪を振り回してる。

 

「――今、行く」

 

 彼女の答えなんて求めない。己の行動に必要なのは己の意志のみだ。

 簡単な話だ。彼女を自分を重ねる必要は何処にも無く、ましてや彼女の意志を尊重し過ぎる事も無い。

 結論。――やりたいようにやりゃあいい。

 理由は幾らでも後付できる。今必要なのは、己の為そうとしている事を為すだけだ。

 

「『緋宴』最小限定開放、自己領域(スクエアライン)を50%で停滞」

 

 紅く光を零す『紅神』を腰のホルスターへ。今必要なのは武器ではない。

 対冷術式を展開し、一歩を踏んだ。

 

「――ッ!! 来ないでぇッ!!」

 

 振動に反応したのか、ただ周囲に吐き出されていた魔力が己へと叩きつけられる。

 払うのは一振りで良い。掲げた手を振り下ろせば、それだけで彼女への道が出来上がる。

 また、一歩を踏んだ。

 彼我の距離、約10メートル。

 

「イヤだ、いやだいやだいやだいやだ、いやだあああああああッ!!」

 

 両腕が既に『変身』している状態で振るわれた爪撃は、魔力を切り裂くことで擬似的な真空波を生じさせた。

 常人ですら知覚できるほどの魔力を切り裂き、一直線に此方へと迫る幾閃もの爪撃をしかし、

 

「――邪魔なんだよ」

 

 緋色の劣化概念を纏った蹴りを打ち込む。

 幾重もの風色の攻撃は、しかし己にとっての障害にはならない。

 今度は二歩、距離を縮める。

 彼我の距離、約8メートル半。

 

「何で!? 何で来るの!? イヤだ来るな、来るなぁあああああああ!!!」

 

 咆哮。

 その力は憤怒か、恐怖か。

 どちらだろうと構いはしない。

 銀と黒を行き帰りする双眸を、しかし臆する事無く見つめ返し、

 

「俺はな、今まで好きにやってきた」

 

「来るな、来るな来るな来るな来るな死ね死ね死ね死ねえぇぇえええええええッ!!」

 

 数十の氷柱を蹴って割り砕き、暴風を五指で打ち破り、邪魔な魔力を傷つけないように、害意の無いように優しく払いのける。

 只一歩、一歩と、彼女に手を差し出すことが出来る様に。

 もう5メートルも無い。

 

「好き勝手に殺して、壊して、砕いて裂いて打ち撒けて! 君と違う復讐を殺って来たんだ!!」

 

「やだ、やだやだやだ、もうやだぁ……!!」

 

 彼女が両手で顔を覆うのと同時に、分厚い氷の壁が張られる。

 それはきっと、彼女の心の壁。

 厚く、硬く、触れれば凍りつくソレは彼女の拒絶。

 

「なあ、怖いんだろう?」

 

 守ってくれる人が簡単に死んで。

 

「きっと、痛いんだろう?」

 

 信じていた人を呆気なく失って。

 

「とても、悲しいんだろう?」

 

 愛していた人を殺されて。

 

「ひどく、憎いんだろう?」

 

 無くして。奪われて。亡くされて。壊されて。

 自分を憎んで、敵を呪って。

 一生を賭けても、仇を殺してやると、そう誓って。

 

「だから、――泣いてるんだろう?」

 

 そっと壁に触れた。

 指先が凍りゆっくりと、しかし確かに侵食し始める。

 吐く息は白く、彼女の涙さえも凍ってしまいそうだった。

 

「嫌よ……もう嫌なの。……何で、父さんが死ななきゃいけなかったの? 何で母さんが捕まらなければならなかったの? 私が弱いから? 私が小さいから? 私が駄目な子だから? ねえ!! 答えてよ! 何で、何で何で何でぇッ!?」

 

 支離滅裂で、だからこそ感情そのものの問い掛け。

 だけど、彼女が望んでいるのは俺の応えじゃ無い。俺が掴んだ答えでもない。

 彼女が望んでいるのは、多分家族の声であって。

 

「……俺は、君の望んでいる事に応えることが出来ない」

 

「――!!」

 

 言った直後、壁が氷柱へと瞬時に変わる。

 轟音の後、コンクリートを削り、背後に在った筈の大気すら串刺しにしたそれらは、しかし自分へと届いていない。

 氷に触れている手で、静かに爪を立てていく。

 

「君が望んでるのは幻想だ。在りもしない、自分で無いと確認した理想だ」

 

 凍りついた指で、しかしそれらを剥ぎ落とすように指に力を込める。

 微かに左足を引いて、氷に触れている右手を押し、額を押し付けた。

 氷に温もり等無く、零下の感情しか伝わりはしない。

 だが、

 

 ……それが全部じゃない……!

 

「そ、んなの……!! そんな事有る訳無い! 絶対、絶対死んでなんかない……」

 

 言葉が消え入ると同時、俯いた彼女の顔さえも見えなくなるほど氷が分厚く、透明から灰色へと変わっていく。

 分厚くなった氷は、しかし指を凍て付かせることは無く。

 

「――逃げるなよ」

 

 きつく、きつく歯を食い縛る。眼を伏せて、思い出すのは小さな頃。

 炎の中で抱き締めてくれた防人の母さん。

 馬鹿な己を張り倒してくれたおやっさん。

 

「前を見なきゃ、前へ進めないんだよ……!!」

 

 ガラスが割れるような音。欠けた氷が地面へと散る。

 連続するソレは、彼女の拒絶が罅割れる事の象徴だろうか。

 

「ぉ……」

 

 力を込める。彼女の拒絶を割り砕いて、身勝手に手を差し伸べる為に。

 歯を食い縛る。己の過去を打ち直し、彼女と重ねない為に。

 

「ぉお……!」

 

 この感情と衝動を、何と呼べばいいのだろう?

 ただ、彼女の元へと駆り立てる、狂気にも似たこの力は。

 

「ぉおお……!!」

 

 頭を上げて、眼を開く。

 薄く透明な壁は、彼女の呆然とした顔を映していた。

 

「おおおおああああああッ!!」

 

 感情が――衝動が、俺を彼女へと駆り立てる!

 パシ、と、乾いた音。

 直後、その氷は瓦解した。

 超重量の物質が崩れ崩落音が木魂する中、彼女へと進んだ。

 腰から上をコンクリートの壁面に預け、泣き腫らした腫れぼったい眼で此方を見上げる彼女は、呆然とした顔で此方を見上げる。

 力の無い唇は、しかし微かに震えて、

 

「父さんは、死んだの……?」

 

「君がそう想うなら、そうなんだろう」

 

「母さんは、もう居ないの……?」

 

「君が信じるなら、そうではないかもしれない」

 

 彼女は力の無い眉で涙を溜めて、

 

「私は、もう一人なの……?」

 

 諦めた様な口調に、しかし何故か、

 

「――それは違う!」

 

「っ……!?」

 

 強い語気と感情が口を衝いていた。

 言葉はビルに反響し空まで届き、その語調は自分ですら判るほど必死で。

 

「君は一人じゃない! 一人なんかじゃないんだ!!」

 

 衝動が、感情がそのまま言葉として口を衝き破る。

 胸の鼓動が加速して、思考は白熱し口調は激しくなる。

 

「君が一人だと言うのならその言葉を否定する! 君が涙を零すならその涙を拭う! だから――」

 

 だから。

 

「そんな淋しい事言うな……!」

 

「……一人じゃ、無い?」

 

 応えるのは言葉ではなく、

 

「あ……」

 

 突き出した右手は氷で皮膚も剥がれ、血が固まっていた。

 汚い右手と此方の顔を往復する彼女の顔を見て、微かに充足感を得る。

 

「……どうし、て?」

 

 俯く彼女は力の無い、しかし零れてしまいそうな言葉で問いかける。

 問いには答えではなく、応えを返すべきだと、そう判断するのは持論だ。

 

「俺が君を助けたいから」

 

 理由はシンプルで良い。無駄な言葉で飾り付けるほど対話はズレていくのだから。

 視線を逸らしはしない。ただ真っ直ぐ、彼女の琥珀色の瞳が揺れているのを見た。

 伸ばした手は真っ直ぐに、ただ彼女へと。

 

「……バカみたい」

 

「そうだな」

 

 確かに、自分勝手に、その上他人を助けたいなど、『裏』では自殺願望者よりも性質が悪い。

 だが、それでも感情が叫び、衝動がこうしろと言っている。それを跳ね返すつもりも無ければ変えるつもりも無い。

 

「頭の中、沸いてるんじゃないの?」

 

「否定はしないさ」

 

 十二年前からとっくに壊れている。

 今更ソレを取り繕う必要も無い。ソレが己だから。

 

「正気じゃないわ……狂ってる」

 

「正常な奴なんて居るわけ無いんだ」

 

 誰も彼も頭の可笑しい奴らばかりだ。まともじゃない。

 大体、正常である必要なんて無い。

 

「……ホント、バカね、貴方」

 

「褒め言葉として受け取っておこうかな」

 

「……バァカ」

 

 彼女が此方へと手を伸ばし、手を取った。

 俯き加減の表情は窺がえず、それでも彼女を支えようと手を引こうとし、逆に引かれた。

 

「……」

 

 それは淡い、ともすれば何の抵抗にもならない程の力。

 しかし、それが何処か己を求めているように思えて、彼女の前へと膝を着いた。無論、右手で彼女の左手をつないだまま。

 

 ――後から彼女に聞けば、それはまるで騎士の宣誓のようだった、と言うのだから、苦笑するほかに無い。

 

「……もうちょっと、こっち、来て」

 

「――」

 

 おとなしく言葉に従い、ほんの少し前へと身を寄せた。

 眼前、俯いた彼女の頭がある。

 影の落ちている彼女の表情は見えず、ただ待った。

 

「ちょっとだけ。……肩、借りるわ」

 

「ああ――相棒」

 

 彼女は膝立ちになり、此方と同じ目線で、しかし俯いたまま身を倒した。

 そのまま受け止めて背に両手を回せば、彼女は両手を此方の肩へと置いて、

 

「――っふ、う、くぅ……ぁ、っく、うぅ……!!」

 

「……」

 

 無言で右手で背を通して頭を撫でる。ぽん、ぽん。と、鼓動に合わせて。

 彼女は此方の左肩に額を押し付けて、しかし結んでいたはずの唇を開いて。

 

「かぁ、さぁん……とうさ……! ふぇえ……!!」

 

 泣き声は、ビルに反響して消えていく。聞いているのは自分だけ。

 彼女を抱き締めたまま、天を仰げば既に空が白み始め、顔を右へと向ければ太陽が出始めていた。

 朝闇を払い、陽の光が氷の残骸を通して反射した。

 

「うぁ……! うあああああ……!!」

 

 彼女は泣いて、自分は彼女を抱き締めて。

 嫌に長い夜が――明けたのだと、そう実感した

 

 

 

 

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