死閃第九章

 

 路地裏。

 暗い其処は、煌びやかな繁華街とは対極を表す。

 正と不は比例し、対極であり、一対でも在る。

 ソレを表す様に、其処は穢れていた。

 空の箱やゴミ、果には汚水が流れる其処は、おおよそ人がいるような場所ではない。

 

 既に時間は深夜。昼間ですら薄暗い其処は、今では微かな月明かりさえも遮りそうなまでに暗い。

 無音と無人に彩られた穢域。

 しかし、

 

「ひぃ……ッ! ひぃ……ッッ!!」

 

 荒い息と共に、其処に女が飛び込んできた。

 年頃は若い。十台半ばといった所か。

 髪を金に染め、ニット帽を被り、シャツの上にジャンパーを羽織り、ブーツで身を固めた彼女は、しかし眼を見開き、息を切らせている。

 足を縺れさせながらも走るその身は振るえ、歯を不規則に震えさせる彼女は、背後に脅えつつ、暗闇の路地裏を走る。

         

 汚水を踏み、足元の物に躓きながらも懸命に。

 

 しかし、

 

「ギャッ!?」

 

 足元に在る重いものに躓き、転ぶ。

 彼女はソレが何かを確かめるために、半ば無意識に己の足元を見て、

 

「……ケンジ?」

 

 其処に在ったのは、彼女の良く知る男の顔。

 瞼は閉じられており、眠りに落ちているのか身じろぎ一つしない。月の光によって多少青白く見える。

 数分前に別々になってしまった筈の彼のソレは、此処に居た。

 

「あ……! そ、そうだよね、こんなことってないよね? あ、あはは、まさかあんなバケモノが居るわけないよね? ねぇ、ケンジ?」

 

 不自然に硬い声に、しかし彼は反応しない。

 しかし、彼女はソレを直視せず、必死に、しかし向き合わずに語りかける。

 

「……ご、ごめんね? その、突き飛ばしたりして……」

 

 彼女は俯き、顔を逸らし、

 

「怒ってる、の……?」

 

 しかしソレは一向に返事をせず、我慢の聞かなくなった彼女は、

 

「も、もう、何寝てんのよケンジ……」

 

 ソレの頬をつついても反応はない。

 ならばと、彼女は片手で動かそうとして彼の頬を叩いた。

 そしてソレは動いた。

 ゆっくりと、叩いた方へと動く。

 カレは起きたのだと思い、嬉しがる彼女。

 

 そして、

 

 ――――ソレは一回転した。

 

「……え?」

 

 ソレは止まることなく動き続け、ついには紅の水音を立てながらコンクリートの壁に当たり、とまる。

 彼女は死閃をカレの頭から下に向け、

 

「ひっ……!?」

 

 其処には、カラダが無かった。

 本来四肢が在るべき場所を大幅に通り越して、アカイロのナニカがブチマケラレ、未だ微かにアカを漏らすニクのカタマリが散乱し、シロがビルの壁に幾つか突き刺さっている。

 ブチマケラレタアカイロはクロに近く、未だに液状。

 

「う、ぐぇぁ……ッ!!?」

 

 彼女の丸めた背中が幾度となく跳ね、中に在ったものと透明なものを吐き出す。

 水音が長く響き、嗚咽を止められない彼女は、しかし、

 

「ナ、によ、コレ……ッ!?」

 

 ゆっくりと、緩慢な動きで彼女は辺りを見回す。

 そして、其処にも見知った者達の頭部が在るのを見た。

 

「サトシ……? カオリ……ッ!?」

 

 眼が在った場所を食われたモノや、半分を食い千切られた頭部だけが血を共に散乱している。

 そこらにはシロが混じり、否応無しにクロに近いアカを見てしまう。

 だからと、彼女は上を見上げた。

 

 今夜は新月。

 唯でさえ大気汚染により星明りが無いこの街では、一切の灯は、全て人工のものであり、このような暗部には無い。

 

 ハズなのに――――

 

 

 

 冷たい黄金を放つ満月が在るべき場所に、一対の銀の光があった。

 

 ソレは月としては小さ過ぎるモノであり、しかして自ずと光を放つモノである。

 ソレを、古代の人々は『魔眼』と呼び恐れた。

 『魔』を宿す邪悪なる眼であると。

 そして、今この現状では、その認識は違わない。

 

「ヒいぁ……ッ!!?」

 

 彼女はごく小さな悲鳴をあげ、鮮血へと尻餅を着きながら後退った。

 その銀は禍々しく、本来の輝きを濁させている。

 

 故にこそ、――恐ろしい。

 

 未だ、神々しさが在るのならば畏怖できたであろう。

 未だ、禍々しさのみならば恐れることが出来たであろう。

 

 しかし、銀には暗さが或った。

 何か、素から外れた、異質なモノが。

 

 故に、彼女は動けない。否、動かない。

 動けば死ぬと、判っているから。

 

「ぁ、ぁ…………ッッ!!!?」

 

 彼女の音は声に成らず、微かに空気を震わせるだけだ。

 そして、

 

「――良イ夜ダね?」

 

 銀は降って来た。

 硬く異質な発音

は酷く不快な感情をもたらす。

 地響きが微かに此方に伝わり、ソレが追加されたように震えが増す。

 

 彼女が見た化け物。ソレは――

 

「狼男……っ!!!?」

 

 震えた声におかしさを感じたのか、ソレは小さく笑った。

 

「酷イなァ……。このからダはおンなノコだヨ?」

 

 無機質で不快な声で告げられた言葉は、しかし彼女にとってはどうでも良かった。

 

「あ、あぁ……!!!」

 

 ……逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げナきゃ逃ゲなきゃ逃げなキゃ逃げなきャ逃げナキゃ死ぬ死ヌ死ぬシぬ死ヌ死ぬしヌ死ぬ死ぬ死ヌ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ね死ね死ぬ死ネ死ぬ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌イやいヤいやイヤいヤいやいやいやいやイヤいヤイヤ!!!!!!!

 

 シニタクナイ。

 その一言に冒されていた彼女は、混乱している思考回路で前と同じように逃げられる可能性を模索する。

 

 恐怖と混乱で身体機能が混乱し、涙、涎、小便構わずあらゆる液体が出る。

 彼女はガチガチと絶え間無く不規則に音を作る歯を止めようともせずにそれ以上下がれない筈の壁へと背中を押し付ける。

 

 ソレを見た銀の瞳の『人狼』は小さく哂い、

 

「かカッ!! 汚いネェ?」

 

 『人狼』は彼女に近付く。彼女は後退り離れようとするが、厚底のブーツは虚しく地面を擦るだけで、背後のコンクリートを壊しはしない。

 ソレは彼女の傍にまで近付き、彼女の服を裂いた。

 衣服を破る音が響く。

 

「あ……」

 

 上半身が露になり、顔を赤らめる彼女。しかしソレは、

 

「んぁア……」

 

 彼女の右胸から右肩までを、その赤い舌で舐め上げた。彼女は身動ぎ、しかし、

 

「ウんうん、。良イカらダダ。若いッてノハ良いネぇ……」

 

 しみじみと呟いたソレの言葉に、あ、と彼女は顔を赤くする。

 そして、カレは、

 

「ソれじャア――――――――イタだキまス」

 

「――――え?」

 

 ガチ、くちり、ボリュ、ご、キぱ、き。

 

「――い、ギイイィいいいいぃいいいぃああ嗚呼アアアアアあああああああああああああああ!!!?!?!?!」

 

 粉砕音と湿った肉の音と悲鳴が重なり、しかして噴出するアカは全てソレの口腔内へと消えていく。

 嚥下する音が響き、その量は増加していく。

 

「――――アぁ……若いってノハ、良イネぇ……」

 

 恍惚が混じりいる声が冷たくアカイロの地面に落ち――

 

 ――――――――加速した。

 

「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!」

 

 彼女の声は既に声に成らず、絶叫という名の音をクロの世界へとブチマケタ。

 

 肉を千切る音が、骨を絶つ音が、筋を裂く音が、身を剥がす音が、意志を潰す音が。

 連続した。

 

 咀嚼、嚥下、裁断、咀嚼、嚥下。

 

 繰り返し繰り返し。

 ぐちゅリグちゃりゴクリと。

 

「あ――――ィ、ぎ」

 

 掠れ出る声すらも既に声ではなく。

 意志の篭らないオトは、只体の反応。

 

 黒い路地裏に、人は居ない。

 

 既に尽き掛けたアカは噴出しもせず、怠惰なままに零れ落ちていく。

 

 微かに固まりかけた周囲のアカは、しかしてそのイロを奪われて灰となって散る。

 

「ァあ……」

 

 快感の震えすら混じる声には人のものなど残っては居ない。

 

 そして。

 

 全てが灰になっていく。

 蛋白質のカタマリも。

 クロに近くなるアカも。

 何かから突き出ていたシロも。

 

 全てが、乾いて、灰になっていく。

 

「良イ夜ダネェ……」

 

 銀の人狼は、一人、呟く。

 

 

 

 

 

 第九章

  決選狭矜

 

 

 

 

 夜。

 何もかもが静止する程の深い夜は、しかし繁華街に措いては適用されない。

 深い夜を討ち払うために作られた人工の灯は、十全にその効力を発揮していた。

 昼間より人口密度の高い其処は、活気と負と正の感情で溢れていた。

 人込みは主に十代後半から四十台までの年齢層であり、中には酒気を帯びているのか顔が赤い者もいた。

 陽気過ぎる感情と、裏で負の感情が入り混じっている中、人は流れていく。

 

 そんな中、とある二組の男女がいた。

 黒のシャツとジーンズにジャンパーを羽織った少年と、デニムジーンズにタンクトップ、ハーフトップを着た黒髪の少女。

 

 要と聖だ。

 

 雑多な人込みの中、要は巡回を行っていた。

 

 ――何故か聖と一緒に。

 

 二人組み(ツーマンセル)で動くという鬼灯の発案の下、当然のように彼女と三上が組み、自分が聖と組むことになった訳だが。

 

 ……役に立ちそうにないな……。

 

 言ってしまえば、戦闘能力は鬼灯よりも多少は上だろうが、性格、行動、技術、判断力などは大きく下回るだろう。

 能力などの詳細もわかるわけでもなく、その上魔術が使えないと来る。

 実質的なサポートは無理、実質的な主戦力として切り込んで行って貰うとしても火力不足。

 

 ……どーするか……。

 

 ぶっちゃけ途轍もなくだるい。心中で溜息をついて頭を抱え、現実でもしそうになり慌てて止めた。

 頭を右手で掻き、盛大な溜息をまた一つ。

 

 横にいる何故か上機嫌の聖を横の視界に映しつつ、辺りを見回す。

 

 此処は日嗣町の南部。

 オフィス街から直ぐに在る、無制の場。

 

 笑い声、酒気、血、様々な匂い。

 多種多様な感情が歩く此処は、ソレに見合う分の諍いも起きる。

 この巡回は、事件の調査も意味も在るが、人間の感情に引き摺られた『魔』による『神秘』の漏洩を防ぐためでも在る。普段は巡回などしないが。文字通り空間跳び越せるし。

 

 自分としては何時ものことながらだるい。

 新種の『魔』等は十数年に一度出るか出ないか程度だし、『協会』からの命令(・・)でもなければ既に寝ている。

 現在の時刻は十二時半。まず寝ている。

 とは言ってもこの巡回は『守護者』の仕事であり、やるべき事はやる。

 

 しかし、

 

「あー……だりィ……」

 

 肩を落として溜息を吐きつつも、周囲一帯に反応系結界を張り続け、探知と挑発を行っている。

 今の所かかったのは、許可を得て此処に住んでいるモノ達ばかり。

 とはいえ、自分は彼らに嫌われているのだが。

 

 ……ソレも当然か。

 

 二年前までは、自分は人外を殺していた。

 許可を得ていようが害を為さないのだろうが崇拝の対象だろうが神だろうが悪魔だろうが天使だろうが魔だろうが何だろうが。

 無差別に、迷いも罪悪もなく、慟哭を受け流し、命を背負わず、只一心に殺した。

 

 刺し殺した。突き殺した。殴り殺した。蹴り殺した。切り殺した。千切り殺した。裂き殺した。絶ち殺した。消して殺した。潰して殺した。壊して殺した。狂い殺した。抉り殺した。穿ち殺した。刳り貫き殺した。呪い殺した。千々に殺した。固めて殺した。燃やして殺した。凍らせて殺した。雷に触れさせて殺した。沈め殺した。焼き殺した。詰め殺した。押し込んで殺した。冒し殺した。毟り殺した。圧し殺した。縛り殺した。当て殺した。捨て殺した。爆発させて殺した。絞め殺した。窒息させて殺した。撃ち殺した。握り殺した。掴み殺した。掻き殺した。噛み殺した。

 

 殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺す。

 

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねと願って死なせた。

 

 笑みも涙も怒りも無く、感情は動かずに。

 

 只殺した。

 

 ただ、其処に居たから。

 

 殺すために殺した。

 

 無意味で無作為で無情で無様で無制で無形で無縁で殺した。

 

 当時から罪悪感は得てないし、今でもそうだ。

 間違いだったと過去を嫌悪することもない。

 復讐そのものに意味がないと理解していた。

 

 それでも、止めなかったのは、

 

 ……納得できなかったからか?

 

 両親が死んだということに、自分が一人だということに。

 殺せば、あの時の日常が、元に戻ると、そう何処かで思っていたのか。

 

「……くだらない」

 

 喪ったモノは取り戻せない。無くしたモノは拾うことなど出来ない。

 ソレは当たり前で、気付いていたのではなかったか。

 

「…………」

 

 ふと、横の聖を見る。

 

 これから喪うモノ。

 既に失い、自分から喪いに行くモノ。

 

 ソレを、先に喪ったものとして、何かを言うのは偽善だろうか。

 

 否、偽善に違いない。それ以外の何者でも在るまい。

 だが。だが、だ。

 

 ……偽善だから、救ってはいけないのか?

 

 否、それでも自分は、誰とも関わりを持たないために此処へ来たのではないか。

 疲れて、面倒くさくなって、怖くなって。

 何もかも、下らないと。

 だるいだけなのだと、そう思って。

 

 『復讐』という過去を、放っておいたままで。

 後悔したまま、直視せずに。

 

 ……だからこそ、言うべきではないのか……!?

 

 彼女を己と同等までに落とさせるのは、危険なのではないか?

 何が、という疑問は生まれなかった。

 思った直後には、既に口は開いており、

 

「――――聖さん」

 

 ああ、やってしまった、と。

 深く後悔した。

 

 

 

 

 

 簡単な話だ。

 

 聖美歌と言う少女は、直情的な思考方法である。

 貶されれば反抗し、褒められれば素直でなくとも照れる。

 無論、多少の分別は付いてはいるが、それでも彼女は愚直なまでに真っ直ぐである。

 

 故に、彼女は横にいる朝闇要と言う少年のことがよく分からなかった。

 自分よりも遥かに強い力を持ちつつも、『協会』でも外れ役職として笑われる『守護者』に就き、尚且つ凄まじくやる気がない。

 絶対に何かを自らやろうとはしない。理由は『だるいから』の一言で片付けられてしまった。

 

 そして、何故それらを使わないのか。それが全く判らない。

 あれほどの力が在れば退魔師のランクとしてはSSだろうし、それだけあれば遊び尽くせるはずだ。文字通り一生。

 しかし彼はだるいと、疲れたといいつつも此処で仕事を、在る意味、最低限生真面目にこなしている。

 

 ……頭がおかしいんじゃ……。

 

 ああ、ソレは在るかも。

 なにせ自分には全くの意味不明な公式を一瞥しただけで全て応えたのが彼なのだから。別に自分が其処まで馬鹿だと言うわけでは、

 

「ない、と、思う……」

 

 補修の結果を思い出して思わず肩を落とす。

 危うくもう一度落ちる所だった。難しすぎると思う。ぶっちゃけ術式よりもむずい。泣く。馬鹿。

 

 だけど、と。

 もしかしたら、彼は、

 

 ……やることがないから、何もしたくないの……?

 

 彼は、何かしたいこともなければ、やるべき事もないのだろうか。

 夢や希望。酷く俗っぽく(チープ)で、安っぽいかもしれないが、それでも、彼にはないのだろうか。

 自分には、ある。今現在は、復讐。両親の敵を、討つ。殺す。

 憎しみだけではない。父と母の弔いも兼ねている。

 母は連れ去られ、父は死んだ。

 凡そまともな『魔術師』ならば『神血』という研究材料を放っておく訳がない。

 だから、全ての思いで奴を殺す。

 この思いは、大きく、熱く、止まるものではない。

 

 だけど、彼には何もないのだろうか。

 何故、彼は生きようとしているのだろうか。

 惰性で生きていても、死んでいるのと同じなのに。

 

 ちらりと、視線を左上に向けて、彼を見る。

 何時も通りの真っ黒の服装に、尚深い黒い双眸と髪。

 ソレは禍々しさを表すようなものではなく、伏臥し、怠惰な眠りに落ちているように見える。

 

 自分には、それが、腹立たしい。

 何故、動こうとしないのだろう。

 何故、何もしないのだろう。

 何故、考えないのだろう。

 

 だから、と、何故と言う思いを問として放つために口を開き、

 

「――――」

 

「――――聖さん」

 

「え!? あ、な、何よ!?」

 

 声が上擦って出た。

 

 

 

 

 

 呼びかけに瞬時に慌て拳を放とうとする聖を見る。取り合えずその魔力を抑えてくれないだろうか。危ない。

 

 ……何で顔が赤いんだ。

 

 素朴な疑問を持とうも、赤い顔でさらには魔力によって銀へと変貌した双眸で睨まれてはからかう訳にもいけない。

 思わず溜息。

 

 見れば、彼女は不満顔で、頬を膨らませつつ自分の話を待っている。何故そう一々素直じゃないのか。

 ともあれ、

 

「……いや、そろそろその拳を下ろそう。当たると先ず骨が逝くと思うから。痛いから。殴ったら今度から飯は無しだ」

 

「ぅぐ……!」

 

 一瞬拳を下ろすかどうか躊躇う聖。そこまで飯が欲しいか。太るぞ。

 以前、自宅で数学を教えた時に夕飯時だったので帰れといった所、夕飯をせがまれた訳だが、

 

 ……まさか買い込んだ食材の半分を食べるとは……。

 

 作って欲しいという願いを断りきれずに作っていたわけだが、いつの間にか家の料理皿の三分の一を消費し、大型の冷蔵庫からは食材が消えていった。場所は聖の腹の中、主なものは肉。

 明らかに体積を超した量では在ったが、本当に何処に詰まってるのだろうか。

 

「……っ」

 

 微かに、頭の中で白い光が見えた。

 

 距離は千。

 反応は大。

 明らかに異なるモノ。

 

 微かに視線を逸らし、辺りを確認する。

 

 店舗の間、路地裏へと続く道。

 微かに赤黒いものが在るのが解る。

 

 残滓が残っている。

 

 まさか、

 

「…………聖さん」

 

 瞬間的に途轍もない欲求が生まれたのを悟る。

 それは、大きい。

 

 生唾が石のように固い。しかしそれを飲み下し、決意を固める。

 これは危険な行為だ。それも飛び切りの。しかし、己の疑問を晴らしたいと言う欲求は何よりも強い。

 

 そう、これはある意味、戦いだ。

 己の知識と、彼女の秘密との。

 

「だっ、だから何なのよ?」

 

 此方の重苦しい雰囲気に慌てたのか、彼女は此方から身を微かに引く。

 これ以上距離を離されるわけにはいけない。

 

 微かに腰を落とし、一歩を詰める。

 そして、

 

「――――ちょっと失礼」

 

「ひぇあっ!?」

 

 『緋宴』を一割励起させ、身体能力を強化した上で踏み込む。無論一般人に解らない様に歩法を用いて。

 思わず此方に向かって突き出された両手を掻い潜り、がら空きの脇に手を送り――――

 

 むに、と。

 

 聖の脇腹の肉を摘んだ。

 

「――ぇ?」

 

 ソレは柔らかく、と言っても贅肉ではなく、筋肉と皮膜だ。

 伸びているのは皮の部分だけ。摘んだ指先からは脂肪の気配が感じられない。

 

「まさか……」

 

 ……一体昨日の食事は何処に消えた!?

 

 軽く見積もったとしても五キロはあった。しかし体系的に見てそれほどに変わりが在るとは思えない。

 

 むにむにと、連続で指先に力を込める。

 微妙に辺りの温度が下がっている気もするが、魔力の気配はないので大丈夫だろう。確信犯的に。

 

「な……っ」

 

「……俺の食材は何処に消えたんだ……」

 

 わざとらしく頭を抱えてから肩を落とし挑発する。というか半分本気だ。

 食費に使ったのが二万三千円。これらのうち、彼女は約半分、一万千五百円を消費した事になる。

 金は腐る程在るが、また買いに行かなければならないと思うと気が落ちる。

 

「ああ……だりィ……」

 

 面倒くさい。身体を動かすのは鍛錬で十分だ。

 

「何すんのよ……っ!!」

 

「ん?」

 

 思わず声に反応して上を見てみると、

 

「……おぅ……」

 

 思わずそんな反応をしてしまうほどに、悪鬼の表情で此方を睨む聖がいた。

 

 右拳が頭上に振りかぶられており、無論魔力が漏れ出ている。

 口元からは白いように見える呼気が溢れ、牙が見えている。

 

 ……いかん。やってしまった。

 

 妙に冷静な自分の脳にある意味呆れ、ある意味賞賛を送りつつ、振りかぶられた拳が落ちる前に身を翻し、

 

「おるぁあッ!!」

 

「つあっ!」

 

 危ない。今背中をかすった。

 一歩目から全力で、しかし一般人には気付かれない程度の速さで。

 人垣を縫うように進んでいく。

 

「待ちなさい朝闇君ッ!! 待たないと殴り殺すわよ!!」

 

 それどちらにしろ結果も同じじゃなかろうか。

 

 そんな風に言葉を思い浮かべつつ、眼前へと、繁華街の闇へと歩を進める。

 

 ――挑発に食いついてきた『魔』が居る方へと。

 

 

 

 二人の姿が裏路地に入り、闇に紛れた。

 慌ただしい喧騒に飲まれ、最早気配すら消え去った。

 

 

 

 一人、彼らを見つめる男がいる。

 黒の長衣を纏い、片眼鏡(モノクル)を掛けた彼は、明らかにその場の雰囲気にそぐわないながらも、誰にも目を向けられない。

 彼は、闇に消えた彼らの背を見つめながら、ただ佇む。

 

「美歌……必ず……。必ず、助けるから」

 

 うわ言の様に滑り出た言葉は、ただただ、妄執のみで形成されていた。

 

 涙を一つこぼし、彼は滑るように世界から消えた。

 

 

 

 

「待ちなさいよ朝闇君ッ!! 貴方あんな真似して只で済むと思ってるの!?」

 

「さてね」

 

「殴り殺されたいのね? そうなのね? うふ、うふふふふふふふふふふふふ……!!!」

 

 いかん。気味が悪い。特に笑い方が。

 

周囲は完全な黒。

 微かに血液の匂いがする。

 廃棄された鉄屑が微かに散らばり、空き瓶や空のペットボトルが投げ捨てられ、据えた匂いは眉をひそめるに値する。

 

 戦場より比べるまでもなく快適な此処は、しかし人々の感情の吹き溜まり。

 欲望と負の感情が吐き出され、ソレ故に『魔』は此処を望む。

 

 結界に反応があったのはこの先数百メートル。

 人払いを既に済ませ、故に聖も自分も逃げる速度は人間とはお世辞にも言えない。

 翔る足は既に跳躍し、割と本気では在る。

 彼女の魔力精製量はそこそこにある。循環速度も一級では在る。

 この調子ならば後数分もかかるまい。

 

 故に、当初の計画通りに立ち止まった。

 

「わぷっ!? ……っ、ちょっと! 急に立ち止まらないでよ! 鼻打っちゃったじゃない……」

 

 抗議の声に反応せず、数瞬、言って良いものかと迷った。

 自分の声が届く範囲ではない事は重々承知しているし、経験則からして参考にも意見にもならない。

 ただ彼女を混乱させるだけかもしれない。

 

 それでも、だ。

 言ってみるべきだとは思う。

 理屈と感情はオナジモノからの派生でも対極。

 

 だからこそ、矛盾も孕んでしまう。

 故に、間違いと正解を、同一視する事もありうる。

 

「――聖さん」

 

 間違いを正当化すれば正解で、正解を崩せば間違いだ。

 だったら、どちらにも、大して意味は無いのではないだろうか。

 

 ――復讐と言う間違いは感情によって正解となり。

 

 ――平穏と言う正解は感情によって間違いとなる。

 

「な、何よ……?」

 

 眼前、拳を振り上げたまま停止した彼女がいる。

 その顔は気圧されたように驚きに歪んでいる。

 

 そんな表情を見て、短い溜息を、頭を振ると同時に吐き出す。

 

 そしてもう一度、彼女を見据えて、

 

「――復讐なんて下らない事は止めろ」

 

 諦観を含めた声で言った。

 

 

 

 

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